秦楚時代41 西楚覇王(十五) 楚漢の対峙 前203年(1)

今回は西楚覇王四年、漢王四年です。四回に分けます。
 
西楚覇王四年 漢王四年
203年 戊戌
 
[] 『資治通鑑』からです。
冬十月、韓信が歴下を守る斉軍を襲って破り、斉都臨淄に至りました。
斉王田広は酈生(酈食其)が自分を売ったと判断して烹(釜茹で)に処しました。
 
その後、斉王は兵を率いて東の高密に走りました。
資治通鑑』胡三省注によると、高密は春秋時代斉国の晏平仲晏子が食邑とした地です。
 
斉王は使者を楚に送って援軍を求めました。
斉相田横は博陽に、守相(代理の国相)田光は城陽に走り、将軍田既は膠東に駐軍しました。
 
史記高祖本紀』は酈生が斉王田広を説得して漢と講和させた事(前年)から、韓信が斉を攻めたため斉王が酈生を殺して高密に走った事、楚の龍且と周蘭が韓信を攻めて大敗した事(後述)、斉王広が彭越を頼って逃走した事(後述)までを前年に書いています。
 
[] 『史記高祖本紀』『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
楚の大司馬曹咎が成皋を守っていました。漢軍が頻繁に戦いを挑みましたが、楚軍は城を出て戦おうとしません。
そこで漢軍は人を送って楚軍を罵り始めました。
数日後(『資治通鑑』は「数日後」。『史記高祖本紀』『史記項羽本紀』では「五六日後」)、ついに怒った曹咎が汜水を渡りました。しかし楚の士卒が川を半分渡った時、漢軍が襲いかかって大破しました。
漢軍は楚国の金玉、貨賂を全て奪い尽くします。
大司馬曹咎は塞王司馬欣、長史董翳と共に汜水の辺で自刎しました。
 
史記項羽本紀』によると、大司馬曹咎は元蘄県の獄掾で、長史司馬欣も元櫟陽の獄吏でした。二人とも項梁を助けて恩徳を施したことがあったため(秦二世皇帝元年参照)、項王に信任されていました。
 
漢王劉邦が兵を率いて黄河を渡り、再び成皋を占領して広武に駐軍しました。食糧は敖倉から供給されます。
 
項羽は梁地(彭越)の十余城を占領した時、成皋失陥を知りました。『史記項羽本紀』によると、項羽はこの時、睢陽に居ました。
項羽はすぐに兵を率いて引き返します(『史記項羽本紀』は「項羽が東海を平定してから西に向かった」としていますが、項羽の勢力は東海まで至っていないはずです。『項羽本紀』の記述は一部混乱が見られます)
漢軍は滎陽東で鍾離昩を包囲攻撃していましたが、項羽が来たと聞いて全軍を険阻な場所に遷しました。
項羽も広武に駐軍して漢軍と対峙します。
 
数か月後、楚軍の食糧が少なくなりました。敖倉を占拠した劉邦が優勢になります。
史記項羽本紀』は「当時、彭越が梁地でしばしば反して楚の糧食を絶ったため、項王が憂いた」としていますが、彭越は項羽に敗れたばかりです。
 
食糧不足を憂いた項王は大きな俎(まないた)を作って太公劉邦の父)を上に乗せ、漢王にこう告げました「今すぐ降らなかったら、私が太公を烹に処そう(煮殺そう)。」
漢王が答えました「私と羽項羽は共に北面して懐王の命を受け、兄弟の契りを結んだ。私の翁(父)は汝の翁でもある。汝の翁を烹したいというのなら、私にも一桮(一杯)の羹を分けてもらえれば幸いだ。」
項王は怒って太公を殺そうとしましたが、項伯が「天下の事はまだどうなるか分かりません。そもそも天下を為そうという者は家を顧みないものです。殺しても無益であり、禍(『史記項羽本紀』と『資治通鑑』では「禍」。『漢書陳勝項籍伝』では「怨」)を増やすだけです」と言ったため、項王は諫言に従いました。
 
楚と漢が長い間対峙して決着がつかないため、丁壮(壮年)は軍旅のために苦しみ、老弱は転漕(水陸の輸送。食糧物資の輸送)のため疲弊していました。
そこで項王が漢王に言いました「天下が匈匈(喧噪。混乱)して数年が経つが、我々両人が原因である。漢王に戦いを挑んで雌雄を決したい。いたずらに天下の民父子に苦を与えるべきではない。」
しかし漢王は笑って「私は智を闘わせることはあっても、力を闘わせることはできない」と答えました。
 
項王は壮士に三回命じて漢軍に戦いを挑ませました。
しかし騎射を得意とする楼煩にことごとく射殺されます。
楼煩は地名なので、恐らく「楼煩の人」という意味です。『資治通鑑』胡三省注では、楼煩は胡人という説と、楼煩県の人が騎射を得意としたため、この士も楼煩と呼ばれたのであり、実際に楼煩の人(胡人)だとは限らないという説を載せています。
 
項王は激怒して自ら甲冑を身につけ、戟を持って戦いを挑みました。
楼煩が矢を射ようとしましたが、項王が目を見開いて叱咤すると、楼煩は目を合わせることも矢を放つこともできず、営壁に逃げ帰って二度と出られなくなりました。
漢王は人を送って相手の武将が誰かを探り、項王が自ら出て来たと知って大いに驚きました。
 
項王が漢王に近づいて、広武間(澗。溝。谷)を隔てて会話しました。
項羽は漢王と単身で戦うことを望みます。
漢王は項羽を譴責してこう言いました「かつて項羽と共に懐王の命を受け、先に関中に入った者を王にすると約束した。しかし項羽は約束に背き、私を蜀漢の王にした。これが一の罪だ。卿子冠軍(宋義)を矯殺(王命を偽って殺すこと)して自尊した(自ら尊い地位に就いた)。これが二の罪だ。項羽は趙を救ってから還って報告するべきだったのに、勝手に諸侯の兵を強制して関に入った。これが三の罪だ。懐王は秦に入ってから暴掠しないように制約したのに、項羽は秦の宮室を焼き、始皇帝の冢を掘り、その財を収めて私有した。これが四の罪だ。更に秦の降王子嬰を強殺した。これが五の罪だ。秦の子弟二十万を新安で偽って阬し(生埋めにし)、その将を王に立てた。これが六の罪だ。項羽は諸将を善地の王とし、故王(旧王)を放逐し、臣下に争って叛逆させた。これが七の罪だ。項羽は義帝を彭城から追い出して自分の都とし、韓王の地を奪い、梁楚の地の王となり、自分の勢力を拡大させた。これが八の罪だ。項羽は人を送って秘かに義帝を江南で弑殺した。これが九の罪だ。人臣でありながらその主を弑し、既に降った者を殺し、政治は不公平で主約(主持した盟約)には信がなく、天下に容認されていない。大逆無道である。これが十の罪だ。私は残賊(残虐な賊)を誅すために義兵を挙げて諸侯に従った。刑余の罪人に項羽(『史記高祖本紀』では「項羽」。『資治通鑑』では「公」)を撃たせれば充分だ。なぜわざわざ公(『史記高祖本紀』『資治通鑑』とも「公」)に戦いを挑まなければならないのだ。」
激怒した項羽は隠していた弩で漢王を射ました。
漢王は胸を負傷しましたが、とっさに足を撫でて「虜がわしの指に命中させた」と言いました。
 
その後、負傷した漢王は横になって休もうとしましたが、張良が無理に漢王を起こして労軍させました。漢の士卒を安心させ、楚に乗じる機会を与えないためです。
漢王は軍内を巡行しましたが、傷が重いため成皋に走りました。
 
 
 
次回に続きます。

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