秦楚時代42 西楚覇王(十六) 斉平定 前203年(2)
今回は西楚覇王四年、漢王四年の続きです。
客(門客。賓客)の一人が龍且に言いました「漢兵は遠戦窮戦(遠征して死力を尽くすこと)しているので、その鋒(勢い)に当たるべきではありません。逆に斉と楚は自分の地に居るので、兵が敗散しやすくなっています(家が近いと士兵は故郷を思って離散しやすくなります)。濠を深くして営壁を固め、斉王に信臣(近臣)を派遣させて亡城(漢に占領された城)を招かせるべきです。亡城が斉王の健在を知れば、楚が援けに来た時、必ず漢に反します。漢兵は二千里も離れた斉地に客居しているので、斉城が全て反したら食糧を得られなくなります。これなら戦わずに漢兵を降すことができます。」
龍且が言いました「わしは平生から韓信の為人を知っている。与しやすい相手だ。漂母に頼って食物を求めたのは、資身の策(身を立てる策)がないからだ。辱を受けて袴下をくぐったのは、兼人の勇(人並み以上の勇気)がないからだ。彼を畏れる必要はない。そもそも斉を援けに来たのに戦わずに漢が降ってしまったら、わしには何の功もない。今、戦って勝てば、斉の半分を得ることができる。」
十一月、斉・楚連合軍が漢軍と濰水を挟んで対峙しました。
土嚢で濰水の上流を塞いでから半数の兵を率いて川を渡り、龍且を襲撃します。しかし韓信軍は勝てずにあきらめたふりをして退却しました。
それを見た韓信は川を堰き止めていた土嚢を決壊させました。大水が押し寄せたため龍且軍の太半の兵が川を渡れなくなります。
韓信はすぐに反撃して龍且を殺しました。
川の東にいた楚軍は四散し、斉王・田広も逃亡します。
以上は『資治通鑑』を元にしました。『史記・項羽本紀』には「淮陰侯(韓信)が楚軍と戦い、漢の騎将・灌嬰が楚軍を大破して龍且を殺した」とあり、『漢書・高帝紀』も「韓信と灌嬰が楚軍を撃破し、楚将・龍且を殺した」としています。
『漢書・陳勝項籍伝』は「当時、彭越が頻繁に梁地で反し、楚の糧食を絶った。韓信も斉を破って楚を撃とうとしていた。そこで項羽は従兄の子・項它を大将に、龍且を裨将に任命して斉を援けさせた、しかし韓信が楚軍を破って龍且を殺し、成陽(城陽)まで追撃して斉王・広を捕虜にした」としています。
『史記・高祖本紀』は前年に「淮陰(韓信)が命を受けて東進したが、平原を渡る前に漢王が酈生を派遣して斉王・田広を説得させた。田広は楚に叛して漢と和し、共に項羽を攻撃した。しかし韓信が蒯通の計を用いて斉を襲い破ったため、斉王が酈生を烹に処した。斉王は東の高密に走った。項羽は韓信が河北の兵を挙げて斉・趙を破り、更に楚を攻めようとしていると聞き、龍且と周蘭(または「周簡」)を送って攻撃させた。韓信は楚軍と戦い、騎将・灌嬰が楚軍を大破して龍且を殺した。斉王・広は彭越を頼って逃走した(彭越を頼るのは田広ではなく田横です。後述します)。当時、彭越は梁地に兵を置いており、楚兵を苦しめて糧食を絶たせていた」と書いています。
『資治通鑑』に戻ります。
漢将・灌嬰が斉の守相・田光を追撃して捕え、博陽に至りました。
田横は斉王が死んだと聞いて自ら斉王に立ち、灌嬰に反撃しました。しかし嬴下で灌嬰に敗れたため、梁に走って彭越に帰順しました。
灌嬰は更に兵を進めて千乗で斉将・田吸を撃ちました。
曹参も膠東で田既を撃ちます。
田吸も田既も殺されて斉の地が平定されました。
漢が張耳を趙王に立てました。
漢王は旧塞王・司馬欣の首を斬って櫟陽の市に晒しました(梟刑)。
司馬欣は前年十月に成皋で敗戦して自刎しました。今回、改めて櫟陽の市で首を晒したのは、櫟陽が塞王の都だったからです。
漢王は櫟陽に四日間留まってから再び軍に戻って広武に駐留しました。
韓信が人を送って漢王・劉邦にこう伝えました「斉は偽詐多変で反覆の国であり、南は楚に近接しています。もし権が軽く(漢の統治力が弱く)、假王(代理の王)を立てなかったら、恐らく斉を安定させることはできません。(臣を)假王に立てて鎮撫させてください。」
漢王は書を開いて一読すると激怒して罵りました「わしはここで困窮しており、旦暮とも(朝から晩まで)汝が来てわしを補佐することを望んでいるのに、汝は自ら王に立つことを欲するのか!」
すると張良と陳平が漢王の足を踏んで諫め、耳元でこう言いました「今、漢は不利な形勢にいます。信(韓信)が自ら王になることを禁じるわけにはいきません。情勢を利用して王に立て、善く遇して彼に斉を守らせるべきです。そうしなければ異変が起きるでしょう。」
二人の意図を悟った漢王は再び罵って言いました「大丈夫が諸侯を定めたら真王になるべきだ。なぜ假王になるというのだ!」
次回に続きます。