秦楚時代44 西楚覇王(十八) 楚漢講和 前203年(4)

今回で西楚覇王四年、漢王四年が終わります。
 
[] 『資治通鑑』からです。
秋七月、漢が黥布を淮南王に立てました。
史記高祖本紀』と『漢興以来諸侯王年表』によると、諡号は「武王」というようです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
八月、北貉と燕の人が漢に梟騎(勇猛な騎兵)を献上しました。
 
[] 『漢書帝紀』によると、漢が初めて算賦の制度を定めました。
「算賦」とは人頭税のことで、『漢書』の注にこう書かれています「十五歳から五十六歳までの民は賦銭(税金)を出した。一人当たり百二十銭を出し、これを一算という。庫兵(蓄えられた兵器)や車馬の費用とした」。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が令を下しました。軍士で不幸にも命を落とした者がいたら、官吏が衣衾(衣服と布団)で死体を包み、棺に納めて家に送らせます。
この命令が発せられてから、四方が漢に帰心しました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
この年、漢が中尉周昌を御史大夫に任命しました。
周昌は前年項羽に殺された周苛の従弟です。周苛も御史大夫でした。
 
[十三] 『史記高祖本紀』『史記項羽本紀』『漢書陳勝項籍伝』と『資治通鑑』からです。
項羽は自分を味方する者が少なく、食糧も尽きていると知りました。一方の漢軍は関中から兵を増派しています。
更に韓信も兵を進めて楚を攻撃しているため、項羽の憂いとなっています。
この頃、漢王が陸賈を派遣して項羽に太公劉邦の父)を返すように求めました。項羽は要求を拒否します。
漢王は改めて侯公を派遣して項王を説得させました。項羽は講和に同意して漢と天下を二分する約束をします。洪溝(鴻溝)の西が漢、東が楚です。
 
九月、楚が太公と呂后を漢に返し(『史記項羽本紀』では「漢王の父母妻子を帰した」としていますが、劉邦の母は既に死んでおり、二人の子は楚に捕まっていません)、兵を率いて東に帰りました。
 
太公と呂后が帰還したため漢兵がそろって万歳を唱えました。
漢王は侯公を平国君に封じましたが、侯公は姿を隠して二度と漢王に会いに来ませんでした(原文「匿弗肯復見」。劉邦が侯公に姿を隠させて二度と会おうとしなかったのかもしれません)
ある人が言いました(または「漢王が言いました。」原文は「曰」の一字だけなので、主語がはっきりしません)「彼は天下の辯士で、彼がいる所は国が傾く、だから(逆に)平国君と号したのだ。」
 
項王が兵を解いて東に向かったので、漢王も西に帰ろうとしました。
しかし張良と陳平がこう言いました「漢は天下の太半を有しており、諸侯も皆帰順しています。逆に楚兵は疲労して食糧も尽きています。今は天が楚を亡ぼそうとしている時です。この機に乗じて楚を取るべきです。兵を解いて攻撃しないのは、『虎を養って自ら憂患を残す(養虎自遺患)』というものです。」
漢王は二人の言に従うことにしました。
 
 
 
次回に続きます。