秦楚時代45 西楚覇王(十九) 垓下の戦い(前) 前202年(1)

今回は西楚覇王五年、漢王五年です。二回に分けます。
 
西楚覇王五年 漢王五年
202年 己亥
 
[] 『漢書帝紀』『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
冬十月(歳首)、漢王劉邦項羽を追撃して陽夏南に至りました。そこで軍を止めて、斉王韓信(後の淮陰侯)、魏相国彭越(後の建成侯)と共に楚を撃つため、合流する期日を決めます。
ところが漢王が軍を進めて固陵に至っても、韓信と彭越は現れませんでした。
 
楚軍が漢軍を撃って大破したため、漢王は再び営壁を堅めて守りに入りました。
 
漢王が張良に言いました「諸侯が従わないがどうするべきだ?」
張良が言いました「楚兵はすぐに破れますが、二人はまだ地を分けていません(楚を破ってから、韓信と彭越が領有する地がまだ定められていません)。二人が来ないのは当然です。君王劉邦が二人と天下を共にすることができるなら、二人はすぐに来るでしょう。それができないようなら、事の行方はまだわかりません。斉王韓信が立ったのは、君王の意によるものではありません。信もまた自堅できない状態です(自分を守れない、安心できない状態です)。彭越は梁地を平定しました。かつて君王は魏豹がいたので彭越を相国に任命しましたが、今、魏豹が既に死んだので、彭越も王位を望んでいます。しかし君王はまだ王位を定めていません。睢陽以北から穀城までの地を全て彭越に統治させ、陳以東から海に至る地を斉王(『資治通鑑』は「韓王」としていますが、恐らく誤りです)信に与えましょう。韓信の家は楚にあるので、韓信も改めて故邑(故郷に近い邑)を得たいと思っているはずです。これらの地を割いて二人に与える約束をし、それぞれ自分のために戦わせれば、容易に楚を破ることができます。」
漢王は「善し」と言って使者を派遣し、韓信と彭越にこう伝えました「力を合わせて楚を撃とう。楚が破れたら、陳から東の海に至る地を斉王に与え、睢陽以北の穀城に至る地を彭相国に与えよう。」
使者が到着すると韓信も彭越も「今から兵を進めます」と答えて参戦しました。
 
十一月、漢の劉賈が南進して淮水を渡り、寿春を包囲しました。漢軍は人を送って楚の大司馬周殷に背反を誘います。
周殷は楚に背き、舒春秋時代の舒国)の兵を率いて六(地名)を屠しました(皆殺しにしました)
更に九江の兵を挙げて黥布を迎え入れ、共に城父に進んで屠しました。
周殷と黥布は劉賈に従って漢軍に合流します(『史記高祖本紀』はここまでを前年の事としています)
 
十二月、項王項羽が垓下に至りました。
 
韓信が三十万を指揮して正面に当たり、孔将軍が左に、費将軍が右に陣を構えます。漢王は後ろにおり、その後ろに絳侯と柴将軍がひかえました。
史記高祖本紀』の注(正義)によると孔将軍と費将軍は韓信の将で、孔将軍は蓼侯孔熙、費将軍は費侯陳賀を指します。絳侯は周勃です。
 
対抗する項羽の兵は十万でした。
 
まず韓信が楚軍を攻撃しましたが、不利になったため退きました。そこで孔将軍と費将軍に出撃させます。
今度は楚兵が不利になったため、韓信が勝ちに乗じて再び攻撃しました。楚軍は垓下で大敗します。
 
項羽は兵が少なく食料も尽きており、漢軍と戦っても勝てないため、営壁に入って固守しました。
漢軍と諸侯韓信、彭越、黥布および周殷、隨何、劉賈等)の兵は楚営を数重に包囲しました。
 
ある夜、項羽は漢軍が楚の歌を歌うのを聞きました。歌声は四面から聞こえてきます(四面楚歌)
資治通鑑』胡三省注によるとこの時に歌われた楚歌は『雞鳴歌』というようです。
項羽が驚いて言いました「漢は楚を全て得たのか。なんと楚人の多いことか。」
項羽は夜になっても寝ようとせず、帳中で酒を飲むようになりました。
 
項羽の陣には虞という名の美人がいました(原文「有美人名虞」)。これは『史記項羽本紀』の記述で、注(集解)は「一説では姓が虞氏」としています。『漢書陳勝項籍列伝』では「姓を虞氏という美人がいた(有美人姓虞氏)」と書き換えられています。虞が姓氏なの名なのか、はっきりしませんが、通常は虞美人といいます。虞美人は常に項羽に従っていました。
また、項羽には騅という駿馬がおり、常に騎乗していました。
 
酒を飲んだ項羽は激昂して悲歌を歌い、自ら詩を作りました。その内容はこうです。
「力は山を抜き気は世を覆う力抜山兮木蓋世)
時に利がないため騅が進まない(時不利兮騅不逝)。
進もうとしない騅をどうすればいいのか(騅不逝兮可奈何)
虞よ、虞よ、汝をどうすればいいのか(虞兮虞兮奈若何)。」
歌詞が数回繰り返され、虞美人も唱和しました。
歌いながら項羽は数行の涙を流し、左右の者も皆泣いて項羽を仰ぎ見ることができなくなりました。
 
史記正義』は『楚漢春秋』西漢陸賈の書。既に散佚しています)から虞美人が唱和した歌を紹介しています。
「漢兵が既に地を攻略し(漢兵已略地)
四方から楚歌の声が聞こえます(四方楚歌声)
大王の意気が尽きたのに(大王意気尽)
賎妾(私)がどうして生きていられるでしょう(賎妾何聊生)。」
虞美人は自殺したといわれていますが、『史記』『漢書』とも明確な記述はありません。『資治通鑑』は虞美人に関する記載を全て省略しています。
 
項王は駿馬騅に乗り、壮士騎者八百余人を指揮して、夜の間に漢軍の包囲を突破しました。南に向かって駆けて行きます。
空が明けた頃、漢軍がそれに気づきました。漢王は騎将灌嬰に命じて五千騎で追撃させます。
項王が淮水を渡る頃には、従う騎者は百余人になっていました。
 
項王は陰陵に至って道に迷いました。一人の田父に出会って道を聞くと、田父は偽って「左」と答えました。
項王は左に進んだため大沢に陥り、漢軍に追いつかれてしまいました。
 
 
 
次回に続きます。

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