秦楚時代46 西楚覇王(二十) 垓下の戦い(後) 前202年(2)

今回は西楚覇王五年、漢王五年の続きです。秦楚時代が終わります。
 
[(続き)] 項王は再び兵を率いて東に戻り、東城に至りました。二十八騎が従っています。
追撃する漢軍の騎者は数千人です。
項王は逃れられないと判断し、騎兵達にこう言いました「わしは兵を挙げてから今に至るまで八年が経ち、この身は七十余戦を経験したが、当たった者は全て破り、撃った者は全て服させ、まだ敗北を味わったことがなく、霸を称えて天下を有した。しかし今、ついにここで困窮してしまった。これは天がわしを亡ぼすのであって、戦の罪ではない(敗戦したのではない。戦術上の失敗ではない)。今日、死ぬことは決まっている。諸君のために快戦し、必ず包囲を潰し、将を斬り、旗を倒し、三勝して、天がわしを亡ぼそうとしているのであって戦の罪ではないことを諸君に教えたいと思う。」
項王は騎兵を四隊に分けて四方に向かわせることにしました。
しかし漢軍が数重に包囲しています。
項王が騎兵に言いました「わしが公(汝等)のために敵の一将を取ってみせよう。」
項王は部下の騎兵を四面から山下に駆けさせ、山東の三カ所で分かれて合流する約束をしました。集合地点を分散させたのは漢軍に項羽の居場所を悟られないためです。
 
項王自ら大声を挙げて駆けて行きました。漢軍は圧倒されて壊滅し、一将が項王に斬られます。
この時、漢の郎中騎楊喜が項王を追いました。項王が目を見開いて叱咤すると、楊喜は人馬とも驚いて数里離れた場所に逃げてしまいました。
 
項王が三カ所に分かれた味方の騎兵(三隊に分かれたうちの一隊)と合流しました。
漢軍は項王の居場所が分からないため、軍を三つに分けて再び包囲します。
項王は漢軍に突進して再び一都尉を斬り、数十百人(数十から百人前後)を殺しました。
改めて騎兵達を集めた時、失ったのは二騎だけでした。
項王が騎兵達に「どうだ?」と問うと、騎兵達は皆伏して「大王の言う通りです」と答えました。
 
項王は東に向かって烏江を渡ろうとしました。
烏江の亭長が船を岸につけて待機しており、項王に言いました「江東は小さいとはいえ、その地は方千里もあり、衆も数十万人を擁しているので、王となるに足ります。大王は急いで渡ってください。今は臣だけが船をもっています。漢軍が至っても渡ることができません。」
しかし項王は笑ってこう答えました「天がわしを亡ぼそうとしているのに、なぜ渡る必要があるのだ。それに、籍(私)は江東の子弟八千人と江を渡って西に向かったのに、今は一人も還る者がいない。たとえ江東の父兄がわしを憐れんで王に立てたとしても、わしに何の面目があって会うことができるというのだ。彼等が何も言わなくても、籍の心に愧(羞恥。慚愧)が生まれないというのか。」
項王は亭長に騅馬を与えてこう言いました「私は公(あなた)が長者だと知っている。私が乗っているこの馬は五歳になり、向かうところ敵なしで一日に千里を駆けたこともある。殺すのは忍びないから公に贈ろう。」
項羽は騎兵達にも馬から下りるように命じ、短兵(刀剣等の短い武器)を持って漢兵と接戦しました。
項羽一人で殺した漢軍は数百人に上りましたが、項羽の身も十余の傷を負います。
項羽が振り向いた時、漢の騎司馬呂馬童がいました。
項羽が問いました「汝はわしの故人(旧知)ではないか?」
呂馬童は背を向けて(原文「面之」。『史記集解』によると、項羽から顔をそむけたのは後ろめたかったからのようです)項羽を指さし、中郎騎王翳に「これが項王です」と言いました。
項王が言いました「漢はわしの頭に千金と邑万戸をかけたと聞いた。汝に徳を為そう(「徳」は『史記項羽本紀』と『資治通鑑』の記述で、原文は「吾為若徳」です。『漢書陳勝項籍伝』では「吾為公得」となっており、「公(汝)に得させよう」「汝に与えよう」という意味になります)。」
項羽自刎しました。
史記集解』によると、項羽は秦始皇帝十五年に生まれ、三十一歳(数え歳)で死にました。
 
王翳が項羽の頭を取り、他の騎兵も殺到して項王の死体を奪い合いました。互いに争って数十人が命を落とします。
最後は楊喜、呂馬童と郎中呂勝、楊武がそれぞれ体の一部を得ました。五人が死体を持ち寄って項羽のものだと認められたため、褒賞の万戸は五人に分け与えられることになりました。五人とも列侯に封じられます。呂馬童は中水侯、王翳は杜衍侯、楊喜は赤泉侯、楊武は呉防侯、呂勝は涅陽侯です。
 
史記高祖功臣侯者年表』を元に五人に関して簡単に紹介します。
呂馬童は漢王元年から劉邦に従いました。項羽を斬った功績で西漢高祖七年(前200年)に千五百戸を封じられます。
王翳(または「王翥」)は漢王三年から従いました。項羽を斬った功績で西漢高祖七年(前200年)に千七百戸を封じられます。
楊喜は漢王二年から従いました。項羽を斬った功績で西漢高祖七年(前200年)に千九百戸を封じられます。
楊武は漢王元年から従いました。項羽を斬った功績で西漢高祖八年(前199年)に七百戸を封じられます。
呂勝は漢王二年から従いました。項羽を斬った功績で西漢高祖七年(前200年)に千五戸を封じられます。
五人とも諡号は荘侯です。
 
史記高祖本紀』によると、垓下の戦いから東城で項羽を殺すまでに漢軍は八万人の楚兵を斬りました。
項羽の死によって楚地が平定されました。

垓下の戦いの地図です。『中国歴代戦争史』を元にしました。
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[] 『漢書帝紀』『史記項羽本紀』と『資治通鑑』からです。
楚の地が全て平定されましたが、魯だけは漢に降りませんでした。魯は項羽が最初に封侯された地です。
漢王劉邦は天下の兵を率いて魯を屠そうとしました(皆殺しにしようとしました)
漢軍が城下に至った時、絃誦の声(琴の音や読書の声)が聞こえました。魯は礼義を守る国なので、主のために死節を守っています。
そこで漢軍は項王の頭の持って魯の父兄に示しました。魯は項羽の死を確認してやっと投降します。
漢王は魯公の礼で項王の葬儀を行い、穀城に埋葬しました。自ら発哀し、哭声を上げてから去ります。
 
漢王は項氏の諸族を誅殺せず、後に項伯等の四人を列侯に封じて劉氏を与えました。
四人というのは射陽侯項伯、桃侯項襄、平皋侯項佗と玄武侯(名は不明)です。
項伯は名を纏といい、鴻門の会で劉邦を助けた人物です。封侯されるのは西漢高祖六年(翌年)の事です。劉纏(項伯)死後、子の劉睢が罪を犯したため射陽国は廃されました。
項襄は漢王二年から客(賓客)として劉邦に従いました。項羽の親族です。西漢高祖十二年(前195年)に封侯されて劉氏を賜ったので、通常は劉襄とよばれます。諡号を安侯といいます。劉襄の子の哀侯劉舎は西漢景帝の時代に丞相になりました。
項佗(『項羽本紀』では「項佗」。『高祖功臣侯者年表』では「項它」)は碭郡の長として漢に帰順しました。西漢高祖六年(翌年)の事です。その翌年に封侯され、劉氏を賜りました。劉它とよばれます。諡号は煬侯です。
この三人は『史記高祖功臣侯者年表』に記述がありますが、玄武侯は記述がないため、詳細が分かりません。
 
楚軍に捕えられて楚に連れていかれた民は皆故郷に帰されました。
 
[] 『史記高祖本紀』と『資治通鑑』からです。
漢王劉邦が帰還し、定陶に至りました。
そこで斉王韓信の営壁に駆け入り、軍権を奪いました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです[四]以下の内容は西漢時代に再述します)
かつて項羽が共敖を臨江王に立てました。
漢王・劉邦項羽を滅ぼした時は、共敖が死んで共尉(『秦楚之際月表』では「共驩」)の代になっています。
臨江王共尉が漢に降らなかったため、漢王劉邦は盧綰と劉賈に攻撃させました。
共尉は捕えられました。
 
史記・高祖本紀』は劉邦が皇帝に即位した後の事としています
 
[] 『資治通鑑』からです
春正月、漢王が斉王韓信を楚王に改めました。楚王は都を下邳に置き、淮北を統治します。
また、魏相国建城侯彭越を梁王にしました。梁王は定陶を都とし、魏の故地を統治します。
 
[] 『資治通鑑』からです。
漢王・劉邦が令を下しました「兵は八年に渡って休むことができず、万民は甚だしい苦労をしてきた。今、天下の事が完成したので、天下の殊死(死刑)以下の者を全て赦すことにする。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
諸侯王がそろって上疏(上書)し、漢王劉邦が皇帝の尊位に即くように求めました。
二月甲午(初三日)、漢王が氾水の陽(北)で皇帝の位に即きました。
王后呂后を皇后に、太子(劉盈)を皇太子に改め、先媼劉邦の母。劉媼)を追尊して昭霊夫人にしました。
 
 
 
本年はまだ途中ですが、次回から西漢時代に入ります。

西漢時代に入る前に

西漢時代1 高帝(一) 劉邦即位 前202年(1)