西漢時代1 高帝(一) 劉邦即位 前202年(1)

今回から西漢時代です。
 
秦滅亡後、項羽が天下を分けて諸将を王に立てました。沛公・劉邦は巴、蜀、漢中の地が与えられて漢王に封じられました。
漢中に送られることになった漢王は怒って項羽を攻めようとしましたが、蕭何が諫めて言いました「『天漢(銀河。天の川)』という語があります。とても美しい名称です。」
漢王は納得して国に赴きました。
漢王は項羽を滅ぼして天下を有してから、始めて封じられた国名を元に国号を「漢」と定めました。
 
太祖高皇帝
姓は劉氏、諱(生前の実名)は邦、字は季といい、沛県豊邑中陽里の人です。
『諡法』に「高」という諡号はありませんが、功が最も高くて漢帝の太祖になったことから高皇帝(高帝)とよばれているようです。
秦二世皇帝元年、陳渉が蘄で挙兵した時、沛の父老が劉季を沛公に立てました。
秦滅亡の翌年に項羽によって漢王に立てられました。その年が漢王元年になります。
漢王五年、漢王が項羽を滅ぼして帝位に即きました。
帝位に即いた劉邦改元せず、漢王に即位してからの年をそのまま続けました。「漢王五年」が「西漢高帝(高祖)五年」になります。
 
 
西漢高帝五年
202年 己亥

本年十二月に項羽が滅びました(十月が歳首です)。漢王五年(前202年)の続きからになります。 

[] 『漢書・高帝紀』からです。
春正月(歳首は十月です)、漢王・劉邦が兄の劉伯を追尊して武哀侯と号しました。
劉伯は早逝したため、諡号が贈られました。
 
[] 『漢書・高帝紀』と『資治通鑑』からです(既述の内容です)
漢王が令を下して言いました「楚地を既に平定したが、義帝には後代がいない。楚衆を存恤(救済、慰撫)するために主を定めよう。斉王・信(韓信)は楚の風俗に馴染んでいるから改めて楚王に立て、淮北の王とし、下邳を都とさせる。魏相国・建城侯・彭越は魏民に対して勤労し、士卒に卑下(身を低くすること)して常に少数で多数を撃ち、しばしば楚軍を破った。よって魏故地の王とする。梁王と号し、都を定陶に定める。」
 
こうして斉王韓信が楚王に改められました。都は下邳で淮北を統治します。
また、魏相国建城侯彭越が梁王になりました。定陶を都とし、魏の故地を統治します。
 
史記・高祖本紀』はこれを劉邦が帝位に即いてからの事としていますが、恐らく誤りです。
 
[] 『漢書・高帝紀』と『資治通鑑』からです(既述の内容です)
漢王が令を下しました「兵は八年に渡って休むことができず、万民は甚だしい苦労をしてきた。今、天下の事が完成したので、天下において殊死(死刑)以下の者を全て赦すことにする。」
 
[] 史記・高祖本紀』と資治通鑑』からです。
諸侯王と将相(『資治通鑑』は「諸侯王」のみ。『高祖本紀』は「諸侯および将相」)がそろって漢王劉邦に上疏(上書)し、皇帝の尊位に即くように求めました。
漢王が言いました「帝とは賢者が有す称号だと聞いている。空言虚語(の者)が守るべきところではない(原文「空言虚語非所守也」)。わしには帝位に即くことはできない。」
群臣が皆言いました「大王は微細(貧困。庶人)から身を起こし、暴逆を誅して四海を平定し、功がある者にはいつも地を割いて王侯に封じました。大王が尊号を称さなかったら皆が(自分の封地を)疑って信じられなくなります。臣等は死をもって(漢王が帝位に即くことを)堅持します。」
漢王は再三辞退しましたが、やむなくこう言いました「諸君は必ずこうすることに便(利)があると考えている。国家に便がある(だからやむを得ない)。」
 
二月甲午(初三日)、漢王が氾水の陽(北)で皇帝の位に即きました。
王后を皇后に、太子を皇太子に改め、先媼(亡母。劉邦の母。劉媼)を追尊して昭霊夫人にしました。
 

劉邦即位の過程が『漢書・高帝紀』にはもう少し詳しく書かれています。
諸侯が上疏して言いました「楚王・韓信、韓王・信、淮南王・英布、梁王・彭越、故衡山王・呉(下述します)、趙王・張敖、燕王・臧荼が死を冒して大王陛下に再拝発言させていただきます。かつて秦が道を失ったため天下がこれを誅しました。大王は先に秦王を得て関中を定め、天下において最も多くの功を立てられました。存亡定危(滅亡した国を存続させ、危機に臨んだ国を安定させること)、救敗継絶(敗亡した者を援け、途絶えた家系を継承させること)によって万民を安んじ、功を盛んにして徳を厚くしました。また諸侯王で功がある者に恩恵を施し、社稷を立てさせました。既に地が分かれて定まったのに、(諸侯王と)位号が比儗(同格)なので上下の分を失っています。これでは大王の著しい功徳を後世に宣言できません。よって死を冒して再拝し、皇帝の尊号を贈ることを請います。」

漢王が言いました「寡人は帝とは賢者が有すものだと聞いている。虚言亡実の名(実情に合わない名称)は取るべきではない(原文「虚言亡実之名非所取也」。上述の『史記・高祖本紀』とは若干異なります)。今、諸侯王は皆、寡人を高くに推しているが、どうしてそこにいることができるか。」
諸侯王が言いました「大王は細微から身を起こして乱秦を滅ぼし、海内を威動させました。また、辟陋の地(僻地)である漢中から威徳を行い、不義を誅し、功がある者を立てて海内を平定しました。功臣は皆地を与えられて食邑としており、(漢王は領地を)私物にしませんでした。大王の徳は四海に施されており、諸侯王で並ぶ者はいません。帝位に居ることこそ実宜(適切。相応しいこと)です。大王が天下に幸を与えることを願います。」
漢王が言いました「そうすれば天下の民にとって便になると諸侯王が考えるのなら同意しよう(則可矣)。」
こうして諸侯王と太尉・長安侯・盧綰等三百人および博士・稷嗣君(「稷嗣」は邑名)・叔孫通が良日を選び、二月甲午(初三日)に尊号を漢王・劉邦に贈りました。漢王は氾水の陽(北)で皇帝の位に即きます。

王后を皇后に、太子を皇太子に改め、先媼(亡母)を追尊して昭霊夫人にしました。

[] 漢書・高帝紀と『資治通鑑』からです。
高帝が詔を発して言いました「元衡山王呉芮と子二人、兄子(従兄)一人は、百粤の兵を従え、諸侯を助け、暴秦を誅して大功を立てたので、諸侯が彼を王に立てたが、項羽が地を侵奪して番君にした。今ここで長沙、豫章、象郡、桂林、南海の地をもって番君・芮を長沙王に立てる。」
呉芮は項羽によって衡山王に立てられましたが、後にその地を奪われて番君と称したようです。但し、いつ王位を廃されたのかは漢書韓彭英盧呉伝(巻三十四)』を見ても書かれていません。
長沙王の都は臨湘とされました。衡山王だった時の都は邾でした。
 
高帝がまた言いました「故粤王無諸(または「亡諸」)は粤の祭祀を世奉(代々奉じること)したが、秦がその地を侵奪し、社稷が血食(祭祀)を得られなくした。諸侯が秦を討伐すると、無諸は自ら閩中の兵を率いて滅秦を助けた。ところが項羽は彼を廃して立てることがなかった。今、閩粤王に立てて閩中の地の王とする。職責を失わせてはならない。」
資治通鑑』胡三省注によると、粤王無諸は句践の子孫です。秦が越の地を奪って閩中郡を置きましたが、今回、改めて王に封じました。
 
資治通鑑』胡三省注に「詔」に関して注釈があります。「詔」は「告(布告。通告)」の意味で、秦漢以後は天子だけが称しました。漢の制度では、皇帝が発する書には四種類あります。策書、制書、詔書、誡敕です。
「策書」は編簡(竹簡、木簡の書)で、皇帝が諸侯王に命を与えたり三公を罷免する時に使いました。
「制書」は皇帝が定めた制度や命令を伝える書で、「制詔三公」と書かれます。全て印璽によって封をされ、尚書令も重ねて印を押しました。州郡に布告されます。
詔書」は皇帝の言葉を報せる書です。
「誡敕」は刺史や太守に皇帝の命を伝える書で、「有詔敕某官」と書かれます。
 
史記・高祖本紀』は「故(元)韓王・信を韓王にした。都は陽翟。衡山王・呉芮を長沙王に遷した。都は臨湘。番君(呉芮)の将・梅鋗に功があり、(漢王に)従って武関に入ったため、高帝は番君を徳とした(「感謝した。」または「番君に恩恵を与えた」。原文「故徳番君」)。淮南王・布(英布)、燕王・臧荼、趙王・敖(張敖)は以前のままとした」と書いています。
韓王・信は項羽に敗れて捕えられ、領地を奪われていたため西楚覇王三年・漢王三年・前204年六月参照)、今回改めて韓王に封じられたようです。
 
[] 『漢書・高帝紀』と『資治通鑑』からです。
帝が西に移動して洛陽を都にしました。
 
史記・高祖本紀』はここで臨江王・驩について書いています。
天下が大いに定まったため、高祖は雒陽(洛陽)を都にしました。諸侯が全て臣属します。
しかし元臨江王・共驩(共尉)だけは項羽のために漢に抵抗しました。
高祖は盧綰と劉賈に包囲させましたがなかなか攻略できません。
共驩は数か月後にやっと投降しましたが、雒陽で殺されました。
 
漢書帝紀』と『資治通鑑』は劉邦が皇帝に即位する前に共尉が破れて捕えられたとしています(既述)
共尉討伐と攻略は即位前で、即位後に洛陽に護送して処刑したのかもしれません。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代 高帝(二) 田横の死 前202年(2)