西漢時代2 高帝(二) 田横の死 前202年(2)

今回は西漢高帝五年の続きです。
 
[] 『史記高祖本紀』からです。
夏五月、兵を全て解散させて家に帰らせました。
諸侯の子で関中にいる者は十二年間の賦役を免じ、故郷に帰った者は六年の賦役を免じて一年の糧食を支給することにしました。
 
漢書帝紀』に高帝の詔が書かれています。
夏五月、兵を全て解散させて家に帰らせました。
高帝が詔を発しました「諸侯の子で関中にいる者は十二年の賦役を免じ(復之十二歳)、帰郷した者はその半分(六年)とする。民の中にはかつて山沢に集まって安全を保ち、名数(戸籍)を登記しなかった者がいる。今、天下が既に定まったので、それぞれ自分の県に帰るように命じ、元の爵位と田宅を回復させることにする。吏(官吏)は文法(道理。法令)によって軍中の吏卒を教訓辨告せよ。笞辱してはならない(道理を説いて教え諭すべきであって、暴力によって辱めてはならない。原文「吏以文法教訓辨告,勿笞辱」)。民の中で飢餓のために自ら身を売って人の奴婢となった者は、皆免じて庶人とする。軍の吏卒(秦楚に仕えた官吏や士卒)は全て赦し、その中で罪がないのに爵位が無い者および大夫(第五爵)に満たない者には全て爵位を与えて大夫にする。元々大夫以上の者にはそれぞれ爵一級を与え、爵が七大夫(第七爵)以上に及ぶ者は皆、邑封地の収入を得させる。七大夫以下の者は皆、本人と戸(一家)の賦税徭役を免じる。」
 
顔師古注によると、七大夫は公大夫を指します。爵位が第七位に当たるので七大夫といいます。
 
資治通鑑』にも詔が紹介されていますが、少し異なります。
夏五月、兵を全て解散させて家に帰らせました。
高帝が詔を発しました「民の中にはかつて山沢に集まって安全を保ち、名数(戸籍)を登記しなかった者がいる。今、天下が既に定まったので、それぞれ自分の県に帰るように命じ、元の爵位と田宅を回復させることにする。吏は文法によって軍中の吏卒を教訓辨告せよ。笞辱してはならない(この部分が『漢書』と異なります。原文「吏以文法教訓辨告,勿笞辱軍吏卒」)。爵が七大夫以上に及ぶ者は皆、邑封地の収入を得させる。七大夫以下の者は皆、本人と戸(一家)の賦税徭役を免じる。」
 
高帝が続けて詔を発しました。『漢書帝紀』からです。
「七大夫公乗(第八爵)以上は全て高爵である。諸侯の子や従軍して帰郷した者は高爵が甚だ多い。吾(わし)はしばしば吏(官吏)に詔を発して、まず彼等に田宅を与え、彼等が吏に要求することがあったら急いで処理するように命じた。爵位がある者や人君(国邑を有して人の主となった者。高爵の者)は上(皇帝)が尊礼(尊重して厚遇すること)している。しかし久しく吏の前に立っても(官吏に要求を訴えても)いまだに解決できない者もいる。これは甚だしく事宜(道理)を失った状態である。かつて秦の民で爵が公大夫以上にある者は令丞(県令県丞)と対等の礼を用いたものである。今、吾(わし)も爵を軽視することがないが、どうして吏だけはこのような態度でいるのだ。そもそも法によって功労がある者には田宅を与えると決められている。今、小吏は従軍したこともないのに自分自身を多く満たし、功がある者は逆に得ることができない。公に背いて私を優先し、守(郡守)(郡尉)長吏(県令長)の教訓(教訓)も全く行き届いていない。諸吏には高爵の者を善遇するように命じる。我が意に背いてはならない。廉問(調査)して我が詔に従わない者がいたら重く論じよ(厳しく裁け)。」
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
高帝が洛陽南宮で酒宴を開きました。『資治通鑑』胡三省注によると、秦の時代に洛陽には既に南宮と北宮があったようです。
高帝が言いました「徹侯(後の「通侯」「列侯」。「徹」は「通」と同義で、功徳が王室に通じるという意味です)、諸将は朕に隠すことなく、皆情(道理)を語れ。わしが天下を得ることができたのはなぜだ?項氏が天下を失うことになったのはなぜだ?」
高起(高が姓氏。『資治通鑑』胡三省注によると、斉太公の子孫が高を食采とし、そこから高氏が生まれました)と王陵が答えました「「陛下は傲慢で人を侮っており、項羽は仁があって人を愛していました。しかし陛下は人に城を攻めさせて地を奪わせると、攻略した地を与えて天下と利を共にしました。逆に項羽はそうすることなく、賢能の者に嫉妬し、功がある者を害し、賢者を疑いました。戦に勝っても人に功を与えず(論功行賞をせず)、地を得ても人に利を与えなかったので、天下を失ったのです。」
高帝が言いました「公は一を知っているがまだ二を知らない。帷幕の中で策をめぐらし(運籌帷幄之中)、千里の外で勝負を決する(決勝千里之外)という点においては、わしは子房張良に及ばない。国家を鎮めて百姓を慰撫し、餉餽(食糧)を供給して糧道を絶たないという点においては、わしは蕭何に及ばない。百万の衆を統率して、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るという点においては、わしは韓信に及ばない。この三者は皆人傑だが、わしはそれを用いることができた。これがわしが天下を取った理由だ。項羽は一人の范增すら用いることができなかった。これがわしの禽(擒)となった理由だ。」
群臣は皆納得して喜びました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
韓信は封国の楚に入ると漂母を招いて千金を下賜しました。
また、韓信を辱めて跨の下をくぐらせた者も招いて中尉に任命しました。
韓信が諸将に告げました「彼は壮士だ。私を辱めた時、私が彼を殺せないはずはなかった。しかし殺しても名(名分)がない。だから忍んで今の地位に至ったのだ。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
彭越が漢から梁王に封じられたため、田横は誅殺を恐れました。田横は漢と対立しており、彭越の下に身を寄せています(西楚覇王四年漢王四年203年参照)
田横は徒属五百余人を率いて海に入り、島に居住しました。『資治通鑑』胡三省注によると、この島は田横島とよばれるようになります。
 
田横兄弟はかつて斉地を平定したため、斉の賢者の多くが帰順しています。海中に住むようになってから、高帝は早く手を打たなければ後に乱を招くことになると恐れました。そこで使者を送って田横の罪を赦し、入朝を誘いました。
しかし田横は辞退してこう言いました「臣は陛下の使者酈生を烹しました。今、その弟の商が漢将になっていると聞いています。臣は恐懼しており、詔を奉じることはできません。庶人となって海島を守ることを請います。」
使者が還って報告すると、高帝は衛尉(宮門の衛屯兵を監督する官)酈商に詔を発してこう告げました「斉王田横がもうすぐ至る。人馬従者に対して敢えて手を出そうとする者がいたら、族夷(族滅)に処す!」
高帝は再び使者に符節を持たせて派遣し、酈商に発した詔の内容を田横に詳しく伝えました。
その上で使者が皇帝の言葉を伝えました「田横が来たら、大きければ王に、小さくても侯になれる。しかし来なかったら、兵を挙げて誅を加えるだろう。」
 
田横は自分の賓客二人と一緒に伝馬(駅馬。早馬)に乗って洛陽に向かいました。しかし洛陽から三十里離れた尸郷(地名)の厩置(駅。馬を置く場所)に着くと、使者に「人臣が天子に会うにはまず沐(沐浴)をする必要がある」と言って留まりました。
田横が賓客に言いました「横(私)は漢王と共に南面して孤(国君の自称)を称していました。しかし今、漢王は天子となり、横は亡虜になって北面して仕えることになりました。この恥辱だけでも既に甚だしいものです。しかも私は人の兄を烹したのに、その弟と肩を並べて主に仕えなければなりません。たとえ彼が天子の詔を畏れて動けなくても、私の心に媿(慚愧。羞恥)が生まれないはずがありません。そもそも陛下が私に会いたいのは、私の面貌を一目見たいからだけのことです。今、私の頭を斬れば、三十里の距離を駆けたとしても、形容(容貌)が損なわれることはなく、まだ見ることができます。」
田横は自剄して賓客に首を運ばせました。
賓客は使者に従って洛陽に走り、高帝に上奏します。
高帝が言いました「ああ(嗟乎)、布衣(庶人)から身を興して兄弟三人が繰り返し王となった。賢人でないはずがない。」
高帝は田横の節に心を動かされて涙を流し、二人の賓客を都尉に任命しました。また士卒二千人を動員して王者の礼で田横を埋葬しました。
 
葬儀が終わると二人の賓客は田横の冢の傍に孔を掘って自剄しました。二人とも孔に落ちて田横に従います。
それを聞いた高帝は大いに驚き、田横の賓客は全て賢人だと考えました。まだ五百人が海上の島に残っていたため、使者を送って洛陽に招きます。
ところが漢の使者が至ると田横の賓客は田横の死を聞いて全て自殺してしまいました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代 高帝(三) 婁敬の進言 前202年(3)