西漢時代 高帝(三) 婁敬の進言 前202年(3)

今回も西漢高帝五年の続きです。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
以前、楚人の季布が項籍(項羽)の将として漢帝(漢王)をしばしば苦しめました。
資治通鑑』胡三省注によると、季布は季が姓で、周の八士西周初期の賢人。商王紂二十一年参照)に季隨、季騧がおり、魯には季氏がいました。
 
項籍が滅んでから、高帝は千金を懸けて季布を探し、匿った者は三族を誅滅すると宣言しました。
季布は髠鉗(髠は髪を剃ること。鉗は鉄の首枷をつけること)して奴隷になり、自ら魯の朱家(『資治通鑑』胡三省注によると、魯の大俠)の家に身を売りました。
朱家は心中で季布だと知り、まず田舍に住ませてから洛陽に赴いて滕公夏侯嬰に会いました。
朱家が言いました「季布に何の罪があるのですか。臣はそれぞれ自分の主のために力を尽くすのが職(職責。常道)というものです。項氏の臣を全て誅殺できるのですか。今、上(陛下)は天下を得たばかりなのに、私怨によって一人を求めています。どうしてこのように不広(寛大ではないこと。狭量)を示すのですか。それに、季布には賢才があります。漢が厳しく追及し続けたら、北の胡匈奴に走らないとしても南の越に走ってしまうでしょう。壮士を嫌って敵国の資(助け)としたのが、伍子胥が荊平(楚平王)の墓を鞭打つことになった原因です。あなたはなぜ上(陛下)のために従容(平然。堂々)と進言しないのですか。」
 
納得した滕公は機会を待って高帝に進言しました。朱家が指摘した内容が告げられます。
高帝は季布を赦して郎中に任命しました。
朱家はこの後二度と季布に会いませんでした。
 
季布の同母弟(父が異なる弟)に丁公という者がおり、同じく項羽の将となりました。
資治通鑑』胡三省注によると、丁は元々姜姓です。斉太公の子が諡号を丁公としたため、その子孫が丁を氏にしました。
 
丁公はかつて漢帝(漢王)を彭城の西で追いつめたことがありました。短兵(短い武器)で漢帝に迫ると、危機に陥った漢帝が振り返って丁公にこう言いました「両賢(丁公と劉邦がなぜ互いに苦しめあわなければならないのだ!」
丁公は兵を指揮して引き上げました。
項王が滅んでから丁公が高帝に謁見しました。
すると高帝は丁公を軍中で引き回してから「丁公は項王の臣でありながら不忠だった。項王に天下を失わせた者である」と言って斬首し、「後に人臣となる者に丁公を倣わせてはならない」と言いました。
 
[十二] 『資治通鑑』からです。
斉人の婁敬が隴西の守備に行くために洛陽を通りました。
資治通鑑』胡三省注によると、婁氏は邾婁国(邾国)の子孫、または離婁(視力が優れていたといわれる古代の人物。『孟子』に「離婁篇」があります)の子孫です。
 
婁敬は洛陽で輓輅(車を牽くためにつけられた横木)を外し、羊裘を着て、斉人虞将軍を通して高帝に謁見を求めました。
虞将軍が鮮衣を与えようとしましたが、婁敬はこう言いました「臣が帛(絹)を着ていたら、帛を着て謁見します。褐(動物の毛を織って作った服。粗末な服)を着ていたら褐を着て謁見します。衣服を改めるつもりはありません。」
虞将軍は帝に報告しました。
 
高帝が婁敬を召すと、婁敬が問いました「陛下が洛陽を都にしたのは周室と隆盛を較べたいからですか?」
高帝は「そうだ(然)」と答えました。
婁敬が言いました「陛下が天下を取った経緯は周室と異なります。周の先祖は后稷が邰に封じられて始まり、徳を積んで善を重ね、十余世後に太王、王季、文王、武王の代に至って、諸侯が自ら帰順しました。そこで殷を滅ぼして天子になったのです。成王が即位すると、周公が相になって洛邑を建設し、天下の中心にしました。諸侯が四方から貢職(貢物)を納めるのに道里(道程。距離)が均一だったからです。徳があれば容易に王となり、徳がなければ容易に滅亡します。だから周の盛時には天下が和洽(和睦)し、諸侯も四夷も賓服服従しない者がなく、貢職に努めたのです。しかし衰退した時には天下が朝見しなくなり、周も制御できなくなりました。徳が薄くなったからだけでなく、形勢が弱くなったことも原因です。今、陛下は豊沛から興り、蜀漢を席捲し、三秦を定め、項羽と滎陽成皋の間で戦い、大戦は七十、小戦は四十にも及びました。天下の民は肝脳塗地(命を犠牲にすること)し、父子が中野に骨を曝し、その数は数え切れません。哭泣の声が絶たれることなく、傷夷(負傷)した者もまだ起き上がっていないのに、成康の時と隆盛を較べるとは、臣が思うに不侔(等しくない。較べられない)なことです。そもそも秦地は山を負って河を帯び、四方が塞がれて固く守られています。危急の事があってもすぐに百万の衆を準備できます。秦地がもつ基礎に頼り、甚美膏腴(豊かで肥沃)な地を資本とできるので、これこそ天府(「府」は「集まる」の意味。天府は万物が集まる場所)というものです。陛下が関に入って都にすれば、たとえ山東が乱れても、秦の故地を全て有すことができます。人と戦う時には、相手の喉をつかまずに背を打ったところで完全な勝利を得ることはできません(不搤其亢,拊其背,未能全其勝也)。陛下が秦の故地を占拠すれば、天下の首をつかんで背を打つことができます(此亦搤天下之亢而拊其背也)。」
高帝は群臣に意見を求めました。
しかし群臣は皆山東の人だったため、争ってこう言いました「周は数百年も王でいましたが、秦はわずか二世で亡びました。洛陽の東には成皋が、西には殽(殽山)と澠(澠池)があり、河を背にして伊洛に向いているので黄河は洛陽の城北にあり、伊洛二水は洛陽の城南にあります)、堅固な地形は頼りにするのに充分です。」
高帝は張良にも意見を求めました。
張良が言いました「洛陽は確かにそのような堅固な地形にありますが、中心となる地域はとても狭くて数百里に過ぎず、田地は薄いうえ(土地は痩せていて)四面に敵を受けています。これは武を用いる国(地域)ではありません。関中は左に殽(函谷関)、右に隴蜀があり、沃野(灌漑された土地)が千里に渡ります。南には巴蜀の饒(豊富な資源)があり、北には胡苑の利(安定、北地、上郡の北は胡と接しており、牧畜ができます。苑は禽獣を養う地です)があります。三面が塞がれて守りになっており、一面だけを開いて東の諸侯を制すことができます。諸侯が安定している時は、河渭が天下の物資を漕輓(水運と陸運)して西の京師に供給させ、諸侯に変があったら流れに沿って東下し、物資を委輸(輸送)することができます。これは金城千里、天府の国というものです。婁敬の説こそ是(正しい)です。」
高帝は即日車に乗って西に向かいました。長安が都になります(実際に遷都するのは二年後です)
婁敬を郎中に任命して奉春君と号し、劉氏を下賜しました。この後、劉敬とよばれます。
資治通鑑』胡三省注によると、奉春君の春は始めを意味します。婁敬が事の始め(きっかけ)を作ったため奉春君としました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代 高帝(四) 反乱 前202年(4)