西漢時代 高帝(四) 反乱 前202年(4)

今回で西漢高帝五年が終わります。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
張良は元々病が多かったため、高帝に従って関に入ってから道引(導引。道家の養生の術)を始めました。穀物を食べず、門を閉ざして外出もしなくなりました(但しこの後も高帝に進言することがあるので、完全に引退したわけではありません)
張良はこう言いました「我が家は代々韓の相となった。韓が滅んでからは、万金の資財を惜しむことなく、韓のために強秦の讎に報いようとして、天下を振動させた(秦始皇帝二十九年・前218年参照)。今、三寸の舌を用いて帝の師(軍師)となり、万戸侯に封じられたが、これは布衣(庶人)の極みであり、良(私)にとっては充分なことだ。人間の事を棄て、赤松子に従って游びたいと思う。」
 
資治通鑑』胡三省注に赤松子の解説があります。赤松子は仙人の号で、神農時代に雨師になりました。水玉を服して神農に火に入っても焼け死なない術を教えます。その後、昆山の上に至り、しばしば西王母の石室に留まりました。風雨と共に天空を上下します。炎帝の少女(末の娘)が赤松子を追い、仙術を得て共に去りました。
 
[十四] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
六月壬辰(初三日)、天下を大赦しました。
 
[十五] 『史記高祖本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
秋七月(『史記高祖本紀』は「十月」としていますが誤りです)、燕王臧荼が謀反して代の地を攻略しました。
 
臧荼がなぜ謀叛したのかははっきりしませんが、この後、劉氏以外の諸侯王が滅ぼされていくので、臧荼は既に危険を感じていたのかもしれません。
 
高帝自ら討伐に向かいます。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
趙景王張耳と長沙文王呉芮が死にました。
趙では張耳の子張敖が、長沙では呉芮の子呉臣が王位を継ぎました。
 
[十七] 『史記高祖本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
九月、燕王臧荼を捕らえました。
 
高帝が詔を発して諸侯王の中で功がある者を燕王に推挙させました。
荊王臣(楚王韓信等十人がそろって言いました「太尉長安盧綰は功が最も多いので、燕王に立てることを請います。」
 
壬子(二十六日)、太尉長安盧綰を燕王に立てました。
 
盧綰の家は高帝と同じ里閈(閭。閈は里門の意味)にあり、しかも盧綰は高帝と同じ日に生まれました。
そのため高帝は盧綰を寵幸しており、群臣もそれを怨みませんでした。今回、燕王に選ばれたのも高帝との関係によるものです。
 
ここで『史記高祖本紀』は「太尉盧綰を燕王に立てた。丞相樊噲に兵を率いて代を攻めさせた」としており、漢書帝紀』にも「丞相噲に兵を率いて代地を平定させた」と書いています。
これに対して『資治通鑑』胡三省注は「『樊噲伝(『史記樊酈滕灌列伝(巻九十五)』)』によると樊噲はこの時まだ丞相ではなく、既に代の地で謀反した者もおらず、『樊噲伝』にも樊噲が代地を平定したという記述がないので、恐らく『本紀』の誤りである」と書いています。
 
[十八] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
項王の故将利幾が叛しました。
資治通鑑』胡三省注によると、利が姓氏です。楚の公子が利を食采にしたため、その子孫が利を氏にしました。
 
利幾は項羽によって陳県の令に任命されましたが、項羽が破れた時、利幾は項羽に従わず、陳令(『漢書帝紀』と『資治通鑑』は「陳令」。『史記高祖本紀』は「陳公」。楚国の「公」は「県令」と同じ意味です)として漢に降りました。高帝は潁川の地を与えて侯に封じます。
後に高帝が洛陽に来た時、通侯(徹侯)として籍を置く者を全て招きました。その中には利幾も含まれています。
利幾はかつて項羽に仕えていたため、恐れて謀反しました。
 
高帝が自ら利幾を撃って破りました。
 
敗れた利幾がどうなったのかははっきりしません。 
漢書帝紀』と『資治通鑑』の記述は「高帝が自ら撃って破った上自撃破之)」ですが、『史記高祖本紀』では「高祖が自ら兵を指揮してこれを撃った。利幾は逃走した(高祖自将兵撃之,利幾走)」と書いています。
敗れた利幾は逃走して行方が分からなくなったのかもしれません。
 
[十九] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
後九月(閏九月)、高帝が諸侯の子を関中に集めました。
また、長楽宮の建築を開始しました。
どちらも長安遷都の準備のためです。
 
資治通鑑』胡三省注によると、長楽宮は秦の興楽宮です。長安城東隅にありました。
 
[二十] 『資治通鑑』からです。
項王の将鍾離昩は以前から楚王韓信と親しくしていました。
項王が死ぬと韓信を頼って逃亡します。
漢王は鐘離昩を怨んでいたため、楚にいると聞いて鍾離昩の逮捕を命じる詔を発しました。
 
この頃、韓信は封国に入ったばかりで、県邑を巡行しており、出入りには兵を連ねて護衛させていました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代 高帝(五) 韓信降格 前201年(1)