西漢時代 高帝(五) 韓信降格 前201年(1)

今回から高帝六年です。三回に分けます。
 
西漢高帝六年
201年 庚子
 
[] 『漢書帝紀からです。
冬十月、高帝が天下の県邑に築城を命じました。
 
[] 『史記高祖本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
十月(『資治通鑑』は「十月」、『史記高祖本紀』は「十二月」としています。『漢書帝紀』は月を明記していません)、ある者が上書して楚王韓信の謀反を訴えました。
高帝が諸将に意見を求めると、皆、「急いで兵を発して豎子を阬(生埋め)にしましょう」と言いました。
しかし高帝は黙ったままです。
高帝が陳平に問うと、陳平は逆にこう問いました「人が信韓信の謀反を上書したことを信は知っていますか?」
高帝が答えました「知らない。」
陳平が問いました「陛下の精兵は楚韓信と較べて如何ですか?」
高帝が答えました「及ばない不能過)。」
陳平がまた問いました「陛下の諸将で用兵において韓信を超えられる者はいますか?」
高帝が答えました「超えられない(莫及也)。」
陳平が言いました「今、兵は楚の精鋭に及ばず、将の能力も及ばないのに、兵を挙げて攻撃したら、謀反をうながすことになります。臣は陛下の危険を心配します。」
高帝が問いました「それではどうすればいい?」
陳平が言いました「古は天子が巡狩(巡視。巡行)して諸侯と会しました。陛下はただ外出して雲夢を遊行すると偽り、諸侯と陳で会すべきです。陳は楚の西界にあります。信韓信は天子が友好のために出游したと聞けば、必ず何事もないと信じて郊外で迎謁するでしょう。謁見した時に陛下が捕えれば、一人の力士だけで解決できます。」
高帝は納得して使者を諸侯に送り、陳で会見することを伝えました。「わしは雲夢に南游する」と宣言して都を発ちます。
 
これを聞いた楚王韓信は疑心を抱いて恐れましたが成す術がありません。
そこにある人がこう言いました「鍾離昩を斬って上(陛下)に謁見すれば上は必ず喜びます。憂いることはありません(無患)。」
韓信はこれに従いました。
 
十二月、高帝が諸侯と陳で会しました。
韓信は鐘離昩の首を持って高帝に謁見します。
すると高帝が武士に命じて韓信を縛らせ、後車に乗せました。
韓信が言いました「人は『狡兔が死んだら猟犬が煮られ、高鳥が尽きたら良弓がしまわれ、敵国が破れたら謀臣が亡ぶ(狡兔死,走狗烹。高鳥尽,良弓藏。敵国破,謀臣亡)』と言ったが、果たしてその通りになってしまった。天下は既に定まった。私が烹されるのは当然だ。」
高帝は「公が反したと告げる者がいたのだ」と言い、韓信を枷で縛って帰還しました。
 
この日、高帝が詔を発しました「天下が既に安定し、豪桀で功がある者は封侯したが、新たに立ったばかりなので(帝位に即いたばかりなので)まだ功績を全て賞すことができない。九年間もその身を軍に置いていたため、ある者は法令を習ったことがなく、ある者はそのために(法令を学んだことがないために)法を犯し、罪が大きい者は死刑の判決が下されている。吾(わし)はこれを甚だ憐れに思うので、天下に大赦を行う。」
こうして大赦が行われました。
 
田肯(または「田宵」)が祝賀して高帝に言いました「陛下は韓信を得て、また秦中(関中)も治めました。秦は形勝の国(勝利の形勢にある国)であり、河を帯びて山に阻まれ、(諸侯と)千里も隔たれており、持戟(戦士)百万秦得百二焉(この部分は理解が困難なので下に書きます)。地勢が便利(利があること)なので、そこから兵を下して諸侯に臨めば、高屋(高い建物)の上から瓴(瓶)を倒して水をこぼすようなものです(その勢いに対抗できる者はいません)
斉の地は、東に琅邪即墨の饒(豊富な物資)があり、南に泰山の固(堅固な守り)があり、西に濁河の限(制約。障害)があり、北に勃海の利があり、地は方二千里にわたり、持戟百万縣隔千里之外斉得十二焉(この部分も改めて下に書きます)。これは東西の秦です(東西に秦があるのと同じです。斉は秦に匹敵します)。親子弟(実の子弟)でなければ斉の王にできる者はいません。」
高帝は「善し」と言って金五百斤を下賜しました。
 
文中の「持戟百万秦得百二焉」と「持戟百万縣隔千里之外斉得十二焉」について『史記』と『漢書』の注釈を元に解説します。
どちらも「百二」「十二」の解釈によって意味が変わります。
一つ目の解釈は、「百二」を「百が二つある」、つまり「二倍」の意味とします。その場合、「千里も隔てた諸侯は持戟(戦士)百万を有しているが、秦は百万を二つ得ることができる」となります。「有利な地形があるので天下の二倍の兵に相当する」「二百万の兵に匹敵する」という意味です。
斉の「持戟百万縣隔千里之外斉得十二焉」も「持戟百万を有す諸侯は千里の外に隔てられており、斉は十を二つ得る」となり、二倍を意味します。但し「百万の二倍」を秦は「百二」と表現しているのに斉は「十二」と表現するのは無理があるように思えます。
もう一つの解釈は、「百二」を「百分の二」の意味とします。「千里も隔てた諸侯は持戟百万を有しており、秦はその百分の二に相当する」となります。これは秦の地形が優位にあるので、諸侯の兵百万の百分の二(二万)の兵で当たることができるという意味です。
斉について述べた「持戟百万縣隔千里之外斉得十二焉」も「持戟百万を有す諸侯は千里の外に隔てられており、斉は十分の二に相当する」となり、諸侯の兵百万に対して十分の二の兵(二十万)で対抗できるという意味になります。
百万に対して秦は二万で対抗でき、斉は二十万で対抗できるとしているのは、斉の地形も優れているものの秦には及ばないことを表しています。
 
高帝は洛陽に還ってから(『史記高祖本紀』では「十余日後」。『漢書帝紀』と『資治通鑑』では「洛陽に帰ってから」)韓信を釈放し、淮陰侯に封じました。
韓信は高帝が自分の能力を畏れ嫌っていると知り、頻繁に病と称して朝従(「朝」は「朝見」。「従」は皇帝の巡遊等に従うこと)しなくなりました。いつも家で鞅鞅(不満な様子)としており、絳侯周勃や将軍灌嬰と同列でいることを恥じとしました。
 
ある日、将軍樊噲の家に立ち寄ったことがありました。樊噲は跪拝して韓信を送迎し、自ら「臣」と称してこう言いました「大王に敢えて臣を訪ねていただきました。」
韓信は門を出てから笑って「生き永らえて噲のような者と同格になってしまった(生乃與噲等為伍)」と言いました。
 
かつて高帝が韓信と自由に会話をして諸将がどれだけの兵を統率できるか議論したことがありました。
高帝が問いました「もしわしならどれだけの兵を指揮できるか?」
韓信が言いました「陛下が指揮できるのは十万に過ぎません。」
高帝が問いました「君はどうだ?」
韓信が言いました「臣は多ければ多いほどいいでしょう(臣多多而益善耳)。」
高帝が笑って言いました「多ければ多いほどいいのに、なぜわしの禽(擒)になったのだ?」
韓信が言いました「陛下は兵を指揮することができませんが、よく将を指揮できます不能将兵而善将将)。これが信が陛下の禽となった理由です。そもそも陛下の能力は『天が授けたもので人の力ではない(天授非人力)』というものです。」
 
 
 
次回に続きます。