西漢時代 高帝(六) 論功行賞 前201年(2)

今回は高帝六年十二月の続きからです。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
甲申(初九日)、高帝が始めて剖符を使って諸功臣を徹侯に封じました。
「剖符」の「剖」は「破る」「割る」の意味です。符を半分に割って諸功臣に与え、封侯の証にしました。「徹侯」は秦代から踏襲された爵位で、後に武帝劉徹の名を避けて通侯に改名されます。
 
蕭何を酇侯に封じました(『資治通鑑』には「蕭何が最も多い食邑を得た」とありますが、事実ではありません。下述します)
功臣は皆、不満を抱いてこう言いました「臣等は身に甲冑を纏って武器を持ち(被堅執鋭)、多い者は百余戦、少ない者でも数十合を経験しました。蕭何は汗馬の労がなく、ただ文墨を持って議論しただけなのに、逆に臣等の上に居るのはなぜですか?」
高帝が諸臣に言いました「諸君は狩猟を知らないのか?狩猟において、獣兔を追って殺すのは狗だ。狗を放って獣がいる場所を指示するのは人だ。諸君はただ逃げ走る獣を得ただけなので、功は狗と同じだ。蕭何に至っては、狗を放って指示をしてきたので、その功は人と同じである。」
群臣は敢えて何も言いませんでした。
 
張良も謀臣として高帝に従ったため、戦闘による功績がありませんでした。しかし高帝は張良に斉の三万戸を選ばせます。
張良が言いました「かつて臣は下邳で身を起こし、留(地名)で上(陛下)と会しました。これは天が臣を陛下に授けたのです。陛下は臣の計を用い、幸いにも時には的中しました。臣は留に封じていただければ充分です。三万戸を受け取ることはできません。」
高帝は張良を留侯に封じました。
 
この時の事を『資治通鑑』胡三省注が『漢書・高恵高后文功臣表』を元に解説しています。
蕭何が封じられた酇は八千戸ですが、曹参が封じられた平陽も張良が封じられた留も万戸を有します。しかし諸侯は蕭何だけに「臣等の上に居るのはなぜか」と不満を漏らしました。
『功臣表』を見ると、曹参は十二月甲申に封侯され、蕭何は正月丙午に封侯されています(但し、中華書局『白話資治通鑑』によるとこの年の正月に丙午はありません。下述します)。『漢書帝紀』と資治通鑑』が十二月甲申に蕭何の封侯を書いているのは恐らく誤りです。
蕭何に対して不満を述べたのは、蕭何と同じ日(正月丙午)に封侯された舞陽侯・樊噲(五千戸)、曲周侯・酈商(四千八百戸)、潁陰侯・灌嬰(五千戸)といった者達のようです。
張良も蕭何と同じ正月丙午に封じられましたが、他の功臣は意見を言いませんでした。これは高帝が三万戸を選ばせたのに張良が一万戸だけで満足したからだと考えられます。
 
陳平を戸牖侯(五千戸)に封じました(『漢書・功臣表』によると、十二月甲申に封じられました)。戸牖は郷名で、陳留郡陽武県に属します。
陳平が辞退して言いました「臣には功がありません。」
高帝が言いました「わしは先生の謀を用いたので戦に勝って敵を破ることができた。これが功でなくて何だというのだ。」
陳平が言いました「魏無知がいなかったらどうして臣が進められたでしょう。」
高帝が言いました「子(汝)のような者は、本に背かない(根本を忘れない)者だと言えるだろう。」
高帝は魏無知にも賞賜を与えました。
 
[] 『史記高祖本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
高帝は天下が定まったばかりなうえ、自分の子がまだ幼く、兄弟も少なかったため、秦の皇帝が孤立して滅亡した前例を教訓とし、同姓の親族を大勢封侯して天下を鎮めることにしました。
 
高帝が詔を発しました「斉は古に立てられた国である。今は郡県になったが、再び(王を封じて)諸侯とする。将軍劉賈(高帝の従兄)はしばしば大功を立てた。(彼のように)寬恵脩絜(寛大慈・高尚純潔)者を斉荊の地の王に選ぶべきである。」
 
春正月丙午(中華書局『白話資治通鑑』によると恐らく誤りです)、韓王信等が上奏しました。元東陽郡、鄣郡、呉郡の五十三県をもって劉賈を荊王に立て、碭郡、薛郡(魯国)、郯郡(東海郡)の三十六県をもって高帝の弟にあたる文信君劉交を楚王に立てるように請います。
 
高帝は楚国韓信の旧封地を二国に分け、劉賈を淮東五十三県に封じて荊王とし、劉交を薛郡東海彭城三十六県(淮西)に封じて楚王にしました。
 
壬子(二十七日)、高帝の兄にあたる宜信侯劉喜(劉仲)を雲中雁門代郡五十三県に封じて代王にしました(これは『漢書帝紀資治通鑑』の記述です。『史記・高祖本紀』は翌年に劉仲を代王にしています。後述します)
 
また、膠東膠西臨菑済北博陽城陽郡七十三県に劉肥を封じて斉王にしました。劉肥は高帝が庶人だった頃の外婦正室以外の妻。または私通した女性)が産んだ子です。
民衆で斉の言葉を話せる者は全て斉国に住ませました。斉は関中に匹敵する大切な地です。その地に劉肥を封じて人口も増やしたところから、高帝の実子に対する信用がうかがえます。
 
[] 『史記高祖本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
高帝は韓王信に能力と武略があり、治めている地は北が鞏洛に、南が宛葉に隣接し、東に淮陽を有しており、全て天下の勁兵(強兵)がいる場所だったため、脅威になると考えました。
そこで太原郡三十一県を韓国に改めて韓王信を太原以北に遷し、胡匈奴を防がせることにしました。都は晋陽です(以前の都は陽翟です)
 
韓王信が上書して言いました「国が辺境に接しており、匈奴がしばしば入寇しています。晋陽は塞から遠いので、馬邑を治めることを請います。」
高帝は馬邑を韓都にすることに同意しました。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
高帝が封侯した大功の臣は二十余人を数えましたが、それ以外の群臣は日夜功を争って優劣が決しないため、まだ封侯できませんでした。
高帝が洛陽南宮にいた時、複道から諸将を眺め見ました。諸将は沙地の所々に集まって話をしています。
高帝が問いました「彼等は何を話しているのだ?」
留侯張良が言いました「陛下は知らないのですか?背反を謀っているのです。」
高帝が問いました「天下は安定しようとしている。なぜ反すのだ?」
留侯が言いました「陛下は布衣から身を興し、彼等のおかげで天下を取りました。今、陛下は天子になりましたが、封賞されたのは全て陛下が親愛する故人(旧知)で、誅されたのは全て陛下が生平から仇怨としていた者たちです。今、軍吏が功を計っていますが、天下の地を使っても全てを封じるには足りません。彼等は陛下が全て封じることができないのではないかと心配し、しかも平生の過失が原因で疑われて誅されるのではないかと恐れています。だから互いに集まって背反を謀っているのです。」
高帝が憂いて問いました「それではどうすればいい?」
留侯が問いました「上(陛下)が平生から嫌っており、群臣も共に知っている者の中で、最も甚だしいのは誰ですか?」
高帝が言いました「雍歯はわしとの間に旧怨があり、しばしばわしを困窮させて辱めてきた。わしは彼を殺したいが、その功も多いので忍びないのだ。」
留侯が言いました「まずは急いで雍歯を封じるべきです。そうすれば群臣はそれぞれ自分も封侯されると堅く信じるでしょう。」
 
三月、高帝は酒宴を開いて雍歯を什方侯(『漢書・功臣表』によると二千五百戸)に封じました。同時に丞相と御史を催促して急いで論功封侯するように命じます。
群臣は酒宴が終わってから喜んで「雍歯でも侯になれたのだから、我々が心配することはない」と言いました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
列侯(徹侯)の受封が全て終わりました。
高帝は詔を発して元功十八人の序列を決めさせました。
 
十八人に関しては『漢書高恵高后文功臣表』に記述があり、顔師古注は「蕭何、曹参、張敖、周勃、樊噲、酈商、奚涓、夏侯嬰、灌嬰、傅寬、靳歙、王陵、陳武、王吸、薛歐、周昌、丁復、蟲達」としています。
但し、『資治通鑑』胡三省注は「師古がいう蕭何から蟲達までの十八人は呂后が定めた序列である」と書いています。張敖は高祖九年(前198年)に趙王を廃されることになり、張耳(張敖の父)も張敖も大功がないので、高帝が十八人の中に入れるはずがありません。しかし張敖は魯元公主(高帝と呂后の娘)を娶ったため、呂后によって序列が上げられたようです。
 
群臣が言いました「平陽侯曹参は身に七十創(傷)を負い、城を攻めて地を掠め、功が最多なので、第一にするべきです。」
すると謁者関内侯鄂千秋が進み出ました。
資治通鑑』胡三省注によると、鄂は姫姓から生まれた氏で晋鄂侯の子孫です。関内侯は列侯に次ぐ地位で、爵第十九位にあたります。但し、侯号があるだけで実際は国邑がなく京畿に住みました。
 
鄂千秋が言いました「群臣の議は皆誤りです。曹参には野戦略地の功がありますが、これは特別な時の事に過ぎません。上(陛下)は楚と五歳(五年)も対峙しましたが、軍を失って衆を亡ぼし、軽身で遁走したことが何回もあります。しかし蕭何が常に関中から兵を派遣して軍を補ったので、上が詔を発して招集しなくても、数万の兵が集結しました。上は乏絶(食糧が乏しくなること)したこともしばしばありますが、軍中の糧食がなくなった時でも蕭何が関中から転漕(陸運と水運)し、食糧の供給を途絶えさせませんでした。陛下がしばしば山東を失っても蕭何は常に関中を保って陛下を待っていました。これは万世の功です。たとえ百数(百人以上)におよぶ曹参のような者がいなくても、漢にとって欠けることはなく、漢が得たとしても(国土を)保全できるとは限りません。どうして一旦の功によって万世の功を覆おうとするのでしょうか。蕭何こそ第一で曹参はその次です。」
高帝は「善し」と言って蕭何に「帯剣履上殿」「入朝不趨」の特権を与えました。
 
二つの特権を『資治通鑑』胡三省注から解説します。
古の君子は身を守るために必ず剣を帯びましたが、秦法によって群臣が上殿する時には尺寸の武器も持ってはならないことになりました。草靴を「菲」、麻靴を「屨」、皮靴を「履」といい、履は従軍の時に履くものでした。そのため上殿の際には履を脱がなければなりません。「帯剣履上殿」は剣を帯びて皮靴(軍靴)を履いたまま上殿できるという特権です。
国君の前を移動するときは必ず小走り(趨)することで崇敬の意を示しました。「入朝不趨」とは入朝して国君に謁見する時も小走りをしなくていいという特権です。
 
この日、蕭何の父子兄弟十余人にも食邑が封じられ、蕭何には二千戸が加封されました。元の八千戸と併せて万戸になります。
 
高帝が言いました「わしは『賢人を進めた者は上賞を受ける(進賢受上賞)』と聞いている。蕭何の功は高いが、鄂君を得たことでますます明らかになった。」
鄂千秋は所有していた食邑を元に安平侯に封じられました。『漢書高恵高后文功臣表』によると、安平侯は二千戸で封侯されたのは八月甲子の事です。
 
 
 
次回に続きます。