西漢時代 高帝(九) 長安遷都 前200年(2)

今回は高帝七年の続きです

[] 『資治通鑑』からです。
十二月、高帝が帰る途中に趙を通りました。
趙王張敖は魯元公主(高帝の娘)を娶っていたため子壻(壻)の礼を採り、自分の身を低くしていました。
しかし高帝は箕倨(両脚を前に伸ばして坐ること。礼から外れています)したまま傲慢な態度で張敖を罵りました。
趙国の相貫高(貫が姓です。『資治通鑑』胡三省注によると、春秋時代周王室に仕えた原伯貫の子孫です)や趙午等が怒って言いました「我が王は孱王(「孱」は惰弱の意味)だ!」
そこで貫高等が張敖に言いました「天下には豪傑が並立しており、能力がある者が先に立つものです。今、王は帝に仕えてはなはだ恭敬ですが、帝には礼がありません。王は(帝を)殺すべきです!」
張敖は指をかじって血を流し(忠誠を誓うことを示します)こう言いました「君はなぜ誤ったことを言うのだ。先人(父。張耳)は国を失ったが、帝に頼ったから復国でき、徳が子孫に受け継がれることになった。秋豪(秋亳細かい事)も全て帝の力である(帝のおかげである)。君は二度と口にするな。」
貫高と趙午等が互いに言いました「我々が誤っていた。我が王は長者だから徳に背くことができない。しかし我々も義によって辱めを受けるわけにはいかない。今、帝が我が王を辱めたから殺そうと思ったのだ。王を巻き添えにする必要はない。事が成功したら王に帰し、事が失敗したらこの身だけで罪に坐そう。」
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
匈奴が代を攻めました。
代王劉喜(高帝の兄劉仲。代国は韓王信の故国)は国を棄てて雒陽(洛陽)に逃げ帰ります。
高帝は劉喜の罪を赦して郃陽侯に封じました。
 
史記高祖本紀』には「高祖は平城を去って趙と雒陽を経由し、長安に至った」とあるので、この時、高帝は雒陽にいたようです。
また、『史記・高祖本紀』は劉仲が匈奴に敗れて逃亡したのを翌年の事としています。
 
漢書帝紀』と資治通鑑』に戻ります。
辛卯(中華書局『白話資治通鑑』によると恐らく誤りです)、高帝が皇子劉如意を代王に立てました。劉如意は戚夫人の子です。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
春、郎中に耐罪以上の刑を与える際は上請(皇帝の許可を求めること)するように命じました。
耐というのは罪を犯した者の鬚を剃る軽刑です。
 
また、民に子が生まれたら二年間の徭役を免除することにしました。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春二月、高帝が長安に入りました。
丞相蕭何が未央宮を建造しました。東闕、北闕、前殿、武庫、太倉が建てられています。
史記』の注釈(『集解』『索隠』)によると、東闕を蒼龍闕、北闕を玄武闕とよびました。
資治通鑑』胡三省注によると、未央宮は長安城西南隅にあります。一里を隔てて東に長楽宮があり、間に武庫がありました。
 
高帝は壮麗な未央宮の宮闕を見ると怒って蕭何に言いました「天下が匈匈(混乱した様子)とし労苦(『漢書帝紀』と『資治通鑑』は「労苦」。『史記高祖本紀』は「苦戦」。「戦の苦しみ」の意味)が数歳(数年)も続いている。成敗もまだわからないのに、なぜ過度な宮室の建造を行うのだ!」
蕭何が言いました「天下がまだ安定していないからこそ、それに乗じて宮室を建造するのです。そもそも天子は四海を家とします。壮麗でなければ重威を持つことができません。また、後世に(宮殿の規模を)越えさせないためでもあります。」
高帝は納得して喜びました。
 
尚、『史記高祖本紀』は本年に長楽宮が完成し、翌年に未央宮が完成したとしていますが、長楽宮が完成したのは本年十月(歳首)、未央宮は二月の事だと思われます。
 
以前、婁敬と張良が関中に都を置くように進言しましたが、まだ都邑が完成していなかったため櫟陽を拠点にしていました。今回、未央宮が完成したので正式に長安に遷都しました。
長安という地名について、『史記索隠』が「高祖六年に咸陽を長安に改名した」と解説しています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
漢代に入って初めて宗正官を置き、九族(皇族)を管理させました。
資治通鑑』胡三省注によると、宗正は秦代の官で親族を管理します。西漢平帝の時代に宗伯に改名されます。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
夏四月、高帝が行幸して洛陽に入りました。
 
 
 
次回に続きます。