西漢時代 高帝(十) 劉敬の進言 前199年

今回は西漢高帝八年です。
 
西漢高帝八年
壬寅 前199
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
冬、高帝が東進して東垣にいる韓王信の余寇(残党)を撃ちました。
 
高帝は途中で柏人(県名。趙国に属します)を通りました。
これが東垣に向かう途中なのか、東垣から帰る途中なのかはっきりしません。
史記高祖本紀』には「高祖之東垣過柏人」とあり、「行く途中」のようですが、『漢書帝紀』では「還過趙(還りに趙を通り)」と書き変えられていて、帰路の趙(柏人)で異変に遭ったとしています。
資治通鑑』では「上撃韓王信余寇於東垣過柏人」となっており、どちらとも読めます。
 
高帝が柏人を通った時、貫高等(前年参照)が厠の壁の中に人を隠しました。高帝を害すためです。
高帝は柏人に泊まろうとしましたが、胸騒ぎがしたため(心動)、近臣に「ここの県名は何だ?」と問いました。
近臣は「柏人です」と答えます。
高帝は「柏人とは人に迫られる(圧力を加えられる。危害を加えられる)という意味だ(柏人者,迫於人也)」と言って宿泊を中止し、柏人を通り過ぎました。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
十一月、高帝が令を下しました「士卒で従軍して死んだ者は槥(小棺)に納め、その県に帰らせること。県は衣衾(死者に着せる衣服と布団)葬具を与え(小棺で故郷に帰してから、県が正式に葬儀の準備をするという意味です)、少牢(犠牲の様式。羊と豚各一頭)で祀り、長吏(県の高級官吏)が自ら葬儀に参加せよ。」
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
十二月、高帝が東垣から長安に還りました。
 
史記高祖本紀』はこの年、高祖(高帝)が韓王信の余寇を東垣で撃ってから、丞相蕭何が未央宮を建造したことを書いています(『漢書帝紀』『資治通鑑』は未央建造を前年に書いています)
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、高帝が洛陽に行きました。
 
史記高祖本紀』ではこの頃、代王劉仲が国を棄てて雒陽(洛陽)に逃走し、王位を廃されて合陽侯になったとしています(『漢書帝紀』『資治通鑑』では前年です)
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
高帝が令を発しました。
「吏卒で従軍して平城に至った者、および(平城周辺の)城邑を守った者は、全て生涯の徭役を免じる(皆復終身勿事)。」
爵位が公乗(第八爵)以上ではない者は劉氏冠(『漢書』の注釈によると「竹皮冠」)を冠してはならない。」
「賈人(商人)は錦罽を着てはならず、武器を持ってはならず、車に乗ってはならず、騎馬してはならない。」
錦は錦の服、繡は刺繍が施された服、綺は細綾、縠は縐紗(絹織物の一種)、絺は細い葛糸、紵は紵布、罽は毛織物で、どれも高価な衣類です。
 
漢代は農業を重視するために商人の贅沢な生活を制限しました。これを重農抑商といいます。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
秋八月、官吏で過去に罪を犯してもまだ発覚していない者は赦すことにしました。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
九月、高帝が洛陽から長安に還りました。
淮南王英布、梁王彭越、趙王張敖、楚王劉交が従いました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
匈奴冒頓単于がしばしば漢の北辺を苦しめたため、高帝が憂いて劉敬に意見を求めました。
劉敬が言いました「天下は安定したばかりで、士卒が兵(軍事)のために疲労しているので、まだ武で服従させることはできません。冒頓は父を殺して代わりに立ち、群母(父の妻妾)を妻とし、力によって威を立てているので、仁義を用いて説くこともできません。ただ久遠の計を用いて彼の子孫を臣にさせることだけが可能です。しかし陛下にはそれができないのではないかと心配しています。」
高帝が問いました「どうするのだ(柰何)?」
劉敬が言いました「もし陛下が適長公主(「適」は「嫡」の意味で、皇后が産んだ子)単于に)嫁がせ、厚奉(厚い俸禄)を贈れば、彼は必ず(漢を)慕って閼氏単于の妻)に立てるでしょう。もし後に子が生まれたら必ず匈奴の)太子になります。陛下が歳時(四季)ごとに漢に余っていて彼等に不足している物を準備し、頻繁に慰問してそれらを贈り、機に乗じて辨士を派遣して礼節を風諭(遠回しに諭し教えること)すれば、冒頓がいる間は子壻(娘婿)となり、死んでからは外孫(娘の子)単于になります。外孫が敢えて大父(祖父)と抗礼(対等の礼を行うこと。対等な振る舞いをすること)するなどとは、聞いたことがあるでしょうか。こうすれば戦うことなく徐々に臣服させることができます。もし陛下が長公主を送ることができず、宗室や後宮に命じて公主を偽らせても、彼が知ったら貴び近づけようとはしないので無益です。」
高帝は「善し」と言って長公主を嫁がせようとしました。
しかし呂后が日夜泣いて「妾(私)には太子と一女しかいません。どうして匈奴に棄てることができるでしょう」と言ったため、高帝は長公主を嫁がせることができませんでした。
 
 
 
次回に続きます。