西漢時代 高帝(十二) 陳豨謀叛 前197年
今回は西漢高帝十年です。
西漢高帝十年
甲辰 前197年
冬十月(歳首)、淮南王・黥布、梁王・彭越、燕王・盧綰、荊王・劉賈、楚王・劉交、斉王・劉肥、長沙王・呉芮が長楽宮で朝賀しました。
春夏とも何事もありませんでした(無事)。
夏五月、太上皇后が死にました。
太上皇を埋葬してから、櫟陽に捕えられていた死罪以下の囚人を釈放しました。
酈邑を新豊に改名しました。
『史記・正義』に注釈があります。太上皇は時々寂しそうにしていることがありました。高祖は左右の者に理由を問い、太上皇が好んでいた屠販(屠殺業)の若者や、酤酒売餅(酒売り、餅屋)、闘鶏・蹴鞠等が全て身近からなくなってしまったため楽しめないという理由を知ります。
『地理志』の注釈によると、新豊は元驪戎国で、秦代は驪邑(酈邑)といいました。
太上皇が東に帰りたいという想いを強くしたため、高祖が豊を真似て街を造り、豊の民を遷して満たしました。そのため新豊と号しました。
八月、高帝が諸侯王に令を発し、太上皇廟を各国の都に建てさせました。
劉邦は漢王になってから定陶の戚姫を得て寵愛しました。
『資治通鑑』胡三省注によると、「姫」は皇帝の妾の総称で、「姫妾数百」の一人という説と、比二千石(秩禄の等級)の内宮(宮女)という説があります。後者の場合は後宮において倢妤の下、七子・八子の上になります。
姫は元々周王室の姓です。天子の宗女は他の姓より尊貴なため、姫が婦人の美号として広く使われるようになったといわれています。
高帝が関東に向かう時は常に寵愛されている戚姫が従い、日夜啼泣して自分の子を太子に立てるように求めました。
高帝は何回も太子を廃して趙王を立てようとしました。大臣達が反対しましたが、誰も高帝を説得できません。
御史大夫・周昌が朝廷で強く争ったため、高帝が理由を問いました。周昌は元々口吃だったうえ、怒りで興奮していたため、どもりながらこう言いました「臣の口は話ができませんが、臣はそうすることが相応しくないと知っています。陛下が太子を廃そうとするのなら、臣は命を奉じることができません(原文「臣口不能言,然臣期期知其不可。陛下欲廃太子,臣期期不奉詔」。「期期」が口吃を表しています)。」
高帝はおかしくて笑い出しました。
この時、趙王は十歳でした。高帝は自分の死後に趙王を守れなくなるのではないかと恐れます。
高帝が問いました「誰が相応しいか?」
高帝は周昌を趙相に、趙堯を周昌の代わりに御史大夫にしました。
以前、高帝は陽夏侯・陳豨を相国にして趙・代辺境の兵を監督させました。
淮陰侯は天を仰いで嘆息すると、こう問いました「汝に語りたいことがあるがいいか(子可與言乎)?」
陳豨は「将軍の令なら全て従います」と答えます。
淮陰侯が言いました「公(汝)がいる場所は天下の精兵が集まる所だ。そして公は陛下に信幸(信任寵愛)されている臣だ。人が公の畔(謀反)を訴えたとしても、陛下は必ず信じない。しかし再び報告する者が現れたら陛下は疑いを持つ。三回目になったら必ず怒って自ら兵を指揮するだろう。(もしそうなった時)私が公のために中から起きれば(内応すれば)、天下を図ることができる。」
陳豨は以前から韓信の能力を理解していたため、信じて「謹んで教えを奉じます」と答えました。
陳豨は戦国時代に多数の士を養った魏無忌(信陵君)を慕っていたため、大勢の賓客を求めました。
やがて、相として国境を守るようになってから、告(休暇)によって帰還することがありました。
『資治通鑑』の胡三省略に「告」の説明があります。
漢律では、二千石以上の官員に「予告」と「賜告」がありました。
「予告」は功績がある者に与えられた休暇の権利です。
「賜告」は病を治すために皇帝が与えた休暇です。本来、病が三カ月以上治らなかったら罷免されることになっていましたが、皇帝が「賜告」したら、印綬を持って官属を従えたまま家に帰って休むことが許されました。しかし西漢成帝の時代になると郡国二千石(郡守が二千石に当たります)は「賜告」を得ても家に帰ることができなくなり、西漢和帝の時代には「賜告」「予告」とも廃されました。
陳豨が趙を通った時、賓客が従いましたが、車の数は千余乗に上り、邯鄲の官舍が全て満員になったほどでした。
そこで、趙相・周昌が高帝への謁見を求め、陳豨の賓客が盛んなこと、辺境で数年も自由に兵を指揮していおり、このままでは恐らく変事が起きることを詳しく説明しました。
高帝は人を送って陳豨の賓客が代で行った多くの不法な事を調査させました。その結果、多数の案件が陳豨と関連していることが発覚します。
陳豨が恐れているところに、韓王・信が王黄や曼丘臣等を送って謀反に誘いました。
太上皇が死んだ時、高帝は人を送って陳豨を招きました。しかし陳豨は病と称して赴きませんでした。
九月(『漢書・高帝紀』と『資治通鑑』は「九月」。『史記・高祖本紀』では、陳豨の謀反は「八月」で、「九月」は高帝が出征した月)、陳豨がついに王黄等と共に反し、自ら代王に立ちました。趙や代の地を侵します。
高帝が言いました「豨はかつてわしのために働いてとても信があった(『史記・集解』によると、陳豨は臧荼討伐で功を立てて陽夏侯に封じられました)。代地は急とするから(重要だから)、豨を列侯に封じて相国として代を守らせたのだ。ところが今、王黄等と共に代地を劫掠(侵略)している。吏民には罪がない。陳豨や王黄から去って帰順した者は全て赦そう。」
高帝は親征して東に向かい、邯鄲に至りました。
高帝が喜んで言いました「豨は南の邯鄲を守らず漳水で抵抗している。わしは彼が何も為せないことを知った。」
趙相・周昌が上奏して言いました「常山二十五城のうち二十城が陥落しました。守(郡守)・尉(都尉)を誅殺してください。」
高帝が問いました「守や尉は反したのか?」
周昌は「いいえ(不)」と答えます。
高帝が言いました「それは力が足りなかったのだ。罪はない。」
高帝が周昌に命じて趙の壮士から将の能力がある者を選ばせました。周昌は四人を選んで高帝の前に連れて来ます。
高帝が罵って「豎子が将になれるのか」と言うと、四人は恥じ入って地に伏せてしまいました。
ところが高帝はそれぞれに千戸を封じて将に任命しました。
左右の者が諫めて言いました「蜀・漢に入った時から楚討伐まで従った者に対して、賞がまだいきとどいていません。今、彼等を封じましたが、何の功があるのですか?」
高帝が言いました「汝が分かることではない。陳豨が反したため、趙・代の地は全て豨に占有された。わしが羽檄(檄文)を発して天下の兵を集めても、まだ来る者はいない。今の計は、ただ邯鄲にいる兵を使うだけだ。どうして四千戸を惜しんで趙の子弟を慰撫しないのだ。」
左右の者はそろって「その通りです(善)」と言いました。
楽叔は楽郷(地名)に封じられ、華成君と号します。
高帝は陳豨の将達がかつて賈人(商人)だったと聞いて「わしは彼等にどう対処すればいいか分かった」と言いました。
すぐに金が準備され、陳豨の将が買収されます。
陳豨の将の多くが投降しました。
次回に続きます。