西漢時代 高帝(十五) 南海王・趙佗 前196年(3)

今回も西漢高帝十一年の続きです。
 
[十一] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
秦二世皇帝の時代(『大越史記全書』によると、秦二世皇前帝二年・前208年)、南海尉(郡尉)任囂が病にかかって死に臨みました。
そこで龍川令(県令)趙佗を招いてこう言いました「秦が無道を行っているため天下が苦しんでいる。聞くところによると陳勝等が乱を起こしており、天下はどう安定するかわからない。南海は僻遠の地だ。わしは盗兵がこの地を侵すことを恐れるので、兵を興して新道(秦が築いた南粤に通じる道)を絶ち、自ら備えを作って諸侯の変化を待とうと思っていた。しかし病が重くなった。番禺(南海郡の治所)は山険を負って南海に阻まれており、東西が数千里に及ぶうえ、多くの中国人(中原の人)が助け合っている。これは一州の主と等しく、国を建てることができる。しかし郡中の長吏にはこれを語るに足る者がいない。だから公を召して告げたのだ。」
任囂は趙佗を行南海尉(「行」は「代理」「代行」の意味)に任命する書を準備しました。
 
当時の南粤(南越)に関して『資治通鑑』胡三省注から解説します。
秦は任囂と趙佗に粤を攻めさせて陸梁の地を攻略しました。南粤が平定され、桂林、南海、象の三郡が置かれます。
一説によると、三郡は南海尉(郡尉)がまとめて管理しました。これを「東南一尉」といいます。しかし胡三省はこの説に反対しており、「南海尉は南海一郡の尉だったはずだ」としています。
以下、胡三省の見解です。
始皇帝二十六年、天下を三十六郡に分けて守監を置きました。三十三年、秦が南粤を占領して南海桂林象の三郡を置きました。この時の南海尉は南海一郡の兵を管理しただけで、三十六郡の郡尉と同じはずです。後に任囂が死んで秦も滅亡してから、趙佗が桂林と象郡を攻めて併合し(下述します)、始めて三郡を治めるようになりました。
 
漢書・高帝紀』と『資治通鑑』の本文に戻ります。
任囂が死ぬと、趙佗は檄文を発して横浦、陽山、湟谿関にこう伝えました「盗兵が間もなくここに至るから、急いで道を絶ち、兵を集めて自守せよ。」
更に法を使って秦が設けた長吏を徐々に誅殺し、自分の党人を假守(仮の郡守)にしました。
秦が滅亡してから、趙佗は桂林と象郡を攻めて併合し、自ら南越武王を称しました。
資治通鑑』胡三省注によると、武王は諡号ではなく生きている間から号したようです。
尚、『大越史記全書』では秦二世皇帝三年・前207年が「南越武帝元年」になっています。中原は秦楚の混乱の時代だったため、史書の記述があいまいになっているようです。
 
本年西漢高帝十一年196年)五月、高帝が詔を発しました「粤人の俗(風習)は互いに攻撃することを好むので、(風俗を改めさせるために)かつて秦が中県(中国の県民)の民を南方三郡(桂林南海象郡)に遷して百粤と雑居させた。天下が秦を誅した時、南海尉(趙佗。「它」と「佗」は同字)が南方にいて長く治め、非常に文理(条理。道理)があり、そのおかげで中県人は耗減することなく、粤人の互いに攻撃する俗もますます止むことになった。全てその力によるものである。よって今、它を南粤王に立てる。」
 
高帝は陸賈に南粤王の璽綬を渡して南方に派遣しました。南粤に剖符を発して使者を行き来させ、百越を集めて統治させて、南辺の患害にならないようにすることが目的です。
資治通鑑』胡三省注によると、陸氏は上古の陸終の子孫です。
 
陸賈が南粤に到着しました。
尉佗(南海尉趙佗)魋結(髪を頭の上で束ねていること。南粤の髪形)、箕倨(足を前に伸ばして坐ること)のまま陸生(陸賈)に会います。
陸生が趙佗に言いました「足下は中国人で(『資治通鑑』胡三省注によると趙佗は真定の人です)、親戚昆弟(兄弟)も墳墓も真定にあります。しかし今、足下は天性に反し(父母の国を想わないという意味です)、冠帯を棄て(中原の服装をせず、南粤人の姿をしているという意味です)、区区とした越によって天子と抗衡し、敵国になろうとしています。禍はすぐその身に及ぶでしょう。そもそも、秦が政治を失ってから諸侯豪傑が並び立ちましたが、漢王だけが先に入関し、咸陽を占拠しました。項羽が約束に背いて自ら西楚霸王に立つと、諸侯が全てこれに属したので、項羽は)至強だったといえます。しかし漢王は巴蜀で挙兵してから天下を掃討し(鞭笞天下)、ついに項羽を誅して滅ぼしました。五年の間で海内を平定したのです。これは人力ではありません。天が建てたのです。天子(高帝)は君が南越の王になり、天下が暴逆(秦楚)を誅しているのにそれを助けなかったと聞きました。将相が兵を移して王(趙佗)を誅殺しようと欲しましたが、天子は労苦を経験したばかりの百姓を憐れんで暫く休ませることにしました。そこで臣を送って君に王印を授けさせ、剖符を発して使者を通じさせることにしたのです。君王は郊外で出迎え、北面して臣と称すべきであるのに、できたばかりで完成していない越国に頼ってこのように屈強服従しないこと)でいます。漢がもしもこれを聞いたら、王の先人の冢(墓)を掘って焼き、宗族を夷滅(誅滅)し、一人の偏将に十万の衆を率いて越に臨ませるでしょう。そうなったら越人が王を殺して漢に降るのも容易な事となります。」
尉佗は驚いて顔色を変え、坐りなおして陸賈に「蛮夷の中に住んで久しいため、礼義を大いに失してしまった」と謝りました。
尉佗が陸生に問いました「私と蕭何、曹参、韓信を較べたらどちらが賢人だ?」
陸生が言いました「恐らく王(尉佗)が賢人です。」
尉佗がまた問いました「私と皇帝を較べたらどちらが賢人だ?」
陸生が言いました「皇帝は五帝三皇の業を継承し、中国を統理(統一して治めること)しています。中国の人は億をもって数え、地は方万里に及び、万物も殷富(豊富)ですが、政は一家(皇室)によって行われています。これは天地が別れてから今までなかったことです。今、王(尉佗)の衆は数十万に過ぎず、全て蛮夷で崎嶇(険しいこと)とした山海の間に住んでおり、漢の一郡のようなものです。どうして漢と較べることができるでしょう。」
尉佗が大笑して言いました「私は中国で立ち上がっていないからここで王になったのだ。私を中国に居させたらどうして漢に及ばないことがあるか。」
言い終わると陸生を留めて酒宴を開きました。
 
数か月後、尉佗が言いました「越中には共に語るに足る者がいない。しかし生(先生)が来てから、私に毎日聞いたことがない話を聞かせてくれた。」
尉佗は陸生に千金に値する橐中装(直訳すると「袋に入れた物」ですが、「宝玉財物」を意味します)を下賜し、その他にも千金を贈りました。
陸生は正式に尉佗を南越王に拝して漢との約(約束。盟約)に従わせました。尉佗は稽首して漢の臣を称します。
 
陸生が帰って報告すると、高帝は大いに喜んで太中大夫に任命しました。
 
[十二] 陸賈はしばしば高帝の前で『詩』『書』を称賛しました。
高帝が罵って言いました「乃公(汝の公。高帝)は馬上にいて天下を得たのだ。『詩』『書』は役に立つはずがない。」
すると陸生はこう言いました「馬の上で天下を得ましたが、馬の上でそれを治めることができるというのですか?湯商王朝の成湯と西周武王)は上に逆らって天下を取ってから(逆取)形勢に従ってそれを守りました(順守)。文武を併用するのが長久の術です。昔、呉王夫差、智伯、秦始皇は全て武を極めて亡びました。もしも秦が天下を兼併してから、仁義を行って先聖に法っていたら、陛下はどうして天下を有すことができたでしょう。」
高帝が慚愧の色を見せて言いました「試しに秦がどうして天下を失い、どうしてわしが天下を得たのか、それから古の国家成敗の道理を、わしのために書いてみよ。」
陸生は国家存亡の徵(兆)を大略して書きまとめました。全部で十二篇になります。
各篇を上奏するごとに高帝が称賛して左右の者も万歳を唱えました。この書は『新語』とよばれます。
 
[十三] 『資治通鑑』からです。
高帝が病を患いました。人に会うことを嫌って禁中で臥せるようになり、戸者(宮門を守る官員)に詔を発して群臣を中に入れさせないようにしました。
周勃や灌嬰等の群臣は中に入ろうとしません。
十余日が過ぎた頃、舞陽侯樊噲が闥(宮中の小門)を開いて直進しました。大臣達が後に続きます。
高帝は一人の宦者を枕にして臥せていました。
高帝を見た樊噲等が涙を流して言いました「かつて陛下は臣等と共に豐沛で起き、天下を定めました。どれほど雄壮だったことでしょう。今、天下が既に定まりましたが、どれだけ憊(疲弊)しているのでしょう。陛下の病いが重いので大臣は震恐しているというのに、臣等に会って事を計らず、ただ一人の宦者と絶とうというのですか(死を迎えようというのですか)。陛下は趙高の事を知らないのですか。」
高帝は笑って立ち上がりました。
 
[十三] 『漢書帝紀』からです。
六月、高帝が令を発し、高帝に従ってきた士卒で蜀中に入った者は全て終生の徭役を免除しました。
 
 
 
次回に続きます。