西漢時代 高帝(十六) 英布謀叛 前196年(4)

今回で西漢高帝十一年が終わります。
 
[十四] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
秋七月、淮南王英布が反しました。
 
淮陰侯韓信が殺された時、英布は既に心中で恐れを抱いていました。
彭越が誅されると、高帝はその肉を醢(肉醤)にして諸侯に下賜しました。
高帝の使者が淮南に至った時、淮南王英布は狩猟をしていました。届けられた醢を見て大いに恐れ、秘かに部下に命じて兵を集めさせます。あわせて周辺の郡に危急の事がないか探りを入れました。
 
この頃、英布の幸姫(寵姫)が病になり、医者にかかりました。
医者の家の前に中大夫賁赫の家がありました。
資治通鑑』胡三省注によると、賁が姓氏で赫が名です。春秋時代、魯国の県賁父の子孫です。魯には賁浦という者もいました。
 
賁赫は厚い礼物を準備して医者の家で酒を飲みました。寵姫も従います。
それを知った英布は寵姫と賁赫が淫通したと疑い、賁赫を捕えようとしました。
すると賁赫は伝(駅馬)に乗って長安に走り、「布(英布)に謀反の端(兆)があります。彼が兵を起こす前に誅殺するべきです」と上書しました。
報告を読んだ高帝が相国蕭何に話すと、蕭何はこう言いました「布がそのような事をするはずがありません。恐らく仇怨の者が妄りに誣告しているのです。まず賁赫を捕え、人を送って淮南王を微験(秘かに探ること)するべきです。」
 
淮南王英布は賁赫が罪を畏れて逃走し、高帝に訴えたと知りました。国の陰事(隠し事。兵を集めて周辺を探っていること)が報告されたと疑います。そこに漢の使者も来て謀反の証拠を探り始めました。
恐れた英布は賁赫の家族を皆殺しにして兵を挙げます。
 
英布謀叛を報せる書が届くと、高帝は賁赫を釈放して将軍に任命しました。
高帝が諸将に計を問いました。諸将は皆、「兵を発して擊つべきです。豎子を坑(生埋め)しましょう。彼には何もできません」と答えます。
汝陰侯滕公夏侯嬰が元楚の令尹薛公を召して意見を求めました。
薛公が言いました「反すのは当然です。」
夏侯嬰が問いました「上(陛下)が地を割いて封じ、爵を分けて王にしたのに、なぜ反すのだ?」
薛公が言いました「往年(以前)は彭越を殺し、前年は韓信を殺しました。この三人は同功一体の人です。禍が自分の身に及ぶと疑ったから反したのです。」
夏侯嬰はこれを高帝に話しました。
 
高帝も薛公を招いて意見を聞きました。
薛公が言いました「布の謀反は不思議ではありません。もし布が上計を用いたら、山東は漢のものではなくなります。中計を用いたら、勝敗の帰趨はまだわかりません。下計を用いたら、陛下は枕を安んじて寝ることができます。」
高帝が問いました「上計とは何だ?」
薛公が答えました「東は呉を取り、西は楚を取り、斉を併せて魯を占拠し、檄を燕趙に送ってそれぞれの地を固守させたら、山東は漢のものではなくなります。」
高帝が問いました「中計とは何だ?」
薛公が答えました「東は呉を取り、西は楚を取り、韓を併せて魏を占拠し、敖倉の粟(食糧)を掌握して成皋の口を塞げば、勝敗の帰趨はまだわかりません。」
高帝が聞きました「下計とは何だ?」
薛公が答えました「東は呉を取り、西は下蔡を取り、輜重を越に遷して自身が長沙に帰れば、陛下は枕を安んじて寝ることができ、漢は無事でいられます。」
 
薛公の進言を『資治通鑑』胡三省注から解説します。
呉は荊王劉賈の封地、楚は楚王劉交の封地、斉は斉王劉肥の封地です。魯は楚領内にあり、韓地は淮陽国(淮陽王劉友)の一部です。魏は梁王劉友の封地です。下蔡は沛郡に属し、越は会稽を指します。長沙は呉芮の封国で、この時は子の呉臣が治めています。
黥布の都は六(地名)にあり、淮水に守られています。下計は西の下蔡と東の呉(劉賈)を占領して淮水全域を支配するという消極的な策です。越は東南にあり、そこに輜重を遷すというのは守りを厚くすることを意味します。また、英布は長沙王(呉芮)と婚姻関係にあったので、自身は長沙に遷ってそこを拠点にすると考えられました。
薛公は英布が積極的に出て来たら勝敗の行方が分からなくなるが、淮水一帯で守りを固めたら恐れる必要がないと判断しました。
 
高帝が薛公に問いました「それではどの計を用いると思うか?」
薛公が言いました「下計を用います。」
高帝が問いました「なぜ上計と中計を廃して下計を用いるのだ?」
薛公が答えました「布は元々麗山の徒です。自ら努力して万乗の主という位に至りましたが、全て自分の身のためであり、後を顧みることなく、百姓のために万世を考慮することもありません。だから下計を用いるのです。」
高帝は「善し」と言って薛公に千戸を封じました。
 
高帝は詔を発して各王や相国に淮南王に相応しい者を選ばせました。群臣は皇子劉長を推します。
こうして皇子劉長が淮南王に封じられました西漢文帝前三年・前177年に再述します)
 
史記高祖本紀』『漢書帝紀』とも七月に英布が謀反してから劉長が封王されていますが、『漢書諸侯王表』は「高帝十一年(本年)十月庚午」に劉長が立てられたとしており、『史記漢興以来諸侯王年表』では高帝十一年(本年)の「十二月庚子」に「厲王諡号劉長元年」と書いています。十月が歳首なのでどちらの年表でも英布謀叛の前に劉長が封王されたことになります。
資治通鑑』は「本紀」に従っています。
 
当時、高帝は病だったため、太子・劉盈に黥布(英布)討伐を命じようとしました。
太子には東園公、綺里季、夏黄公、角里先生という四人の客がいました。
資治通鑑』胡三省注によると、この四人を「四皓」といいます。秦の乱を避けて商山に隠れていました。
園公(東園公)は姓を唐、字を宣明といい、園中に住んでいたためそれを号にしました。
夏黄公は姓を崔、名を広、字を少通といい、斉人です。夏里(地名)で隠居して道を修めたため、夏黄公と号しました。
角里先生は河内軹人で、太伯の子孫です。姓は周、名は術、字は元道といい、京師で霸上先生、または角里先生と号しました。
綺里季の解説はありません。
 
四人が建成侯呂釋之呂后の兄)に言いました「太子が兵を指揮したら、功があっても位が高くなることはなく、逆に功がなかったら、それが元で禍を受けることになります。あなたはなぜ急いで呂后に請い、機会を探して上(陛下)に泣いてこう言わせないのですか『黥布は天下の猛将で、用兵を善くします。今の諸将は皆、かつては陛下と対等な立場にいました。もし太子に彼等を指揮させたら、羊に狼を指揮させるのと同じなので、太子の指示を聞くはずがありません。しかも布(英布)がそれを聞いたら、戦鼓を敲いて西に向かって来るでしょう。上(陛下)は病ですが、無理にでも輜車に乗って、臥して監督するべきです。そうすれば諸将で尽力しない者はいません。上は苦しいと思いますが、妻子のために自強してください』。」
呂釋之は夜の間に呂后に会って話をしました。
呂后は機会を探して高帝の前で涙を流し、四人が話した内容を訴えました。
高帝は「元々豎子は派遣するに足りないと思っていた。而公(汝の公。高帝)が自ら行くことにしよう。」と答えました。
 
史記留侯張良世家』と『漢書張陳王周伝(巻四十)』では建成侯を呂澤としていますが、呂澤は周呂侯で、建成侯は呂釋之です。『資治通鑑』は二書の誤りを訂正しています。
史記留侯世家』に張良四皓、太子に関して詳しい記述があるので別の場所で紹介します。但し、『資治通鑑』は『留侯世家』の記述を信用できないと判断しています。

西漢時代 張良、四皓と太子


高帝が兵を率いて東に向かい、群臣が都を守ることになりました。皆、霸上まで送ります。
留侯張良は病でしたが、なんとか起き上がって曲郵に至りました。
張良が高帝に言いました「臣も従うべきですが、病が重すぎます。楚人は剽疾(剽悍強暴)なので、上(陛下)は争鋒を交えてはなりません。」
更に張良は太子を将軍にして関中の兵を監督させるように進言しました。
高帝が言いました「子房張良は病だが、強臥して(臥せたままでもいいから)太子を補佐してくれ。」
当時、叔孫通が太傅だったため、張良は行少傅事(少傅代理)になりました。
太傅と少傅は太子を教育する官です。
 
高帝は上郡、北地、隴西の車騎と巴蜀の材官(地方の予備兵。または歩兵)および京師中尉京城を警護する官。後に執金吾に改名されます)の士卒三万人を動員し、皇太子(関中)を守るために霸上に駐軍させました。
 
英布は挙兵したばかりの時、自分の将にこう言いました「上(陛下)は老いたから戦を嫌っており、自ら来るはずがない。諸将を派遣するだろう。しかし諸将の中では淮陰韓信と彭越だけを畏れていた。今はどちらも死んだから、残った者を畏れる必要はない。」
英布は薛公が言った通り、東の呉を攻撃しました。
荊王劉賈は敗走して富陵で死にます。
 
英布は劉賈の兵を強制的に支配下に入れ、淮水を渡って楚を撃ちました。
楚王劉交は兵を三つに分けて徐と僮の間で迎撃します。兵を分けたのは連携しながら英布の隙をねらうためです。
ある者が楚将に言いました(原文「或説楚将曰」。「ある者が楚王に言いました」の誤りではないかと思われます)「布は用兵を善くするので、民は以前から畏れています。兵法にはこうあります『諸侯が自分の地で戦う時は散地となる(兵が故郷で戦う時は、自分の家が近いため戦意を失って離散しやすくなる。原文「諸侯自戦其地也散地」)。』今、兵を三つに分けましたが、彼が我々の一軍を破ったら残りの二軍も全て逃走するでしょう。どうして互いに援けることができるでしょうか。」
楚王は諫言を聴きませんでした。
果たして、英布が楚の一軍を破ると他の二軍も敗走離散しました。楚王劉交は薛に走ります。
英布は兵を率いて西に向かいました。
 
高帝は天下の死罪以下の罪人を赦して全て従軍させました。更に諸侯の兵を集結させ、高帝自ら指揮をとって英布討伐に向かいました。
 
 
 
次回に続きます。