西漢時代 張良、四皓と太子

高帝が太子廃立を謀りましたが、四皓が太子を助けました。
以下、『史記留侯張良世家』から張良と四皓、太子に関する記述です。

高帝は太子劉盈を廃して戚夫人の子である趙王・劉如意を立てたいと思っていました。多くの大臣が諫争しても高帝の固い意思を変えることはできません。

太子の母呂后が成す術なく恐れているところに、ある人が進言しました「留侯張良は善く計筴(計謀)を画し、上(陛下)も信用しています。」

進言を聞いて呂后は建成侯呂澤(呂釋之の誤りです。本編参照)を派遣しました。

呂澤が留侯に協力を強制してこう言いました「君(あなた)は常に上(陛下)の謀臣だった。今、上(陛下)は太子の廃立を欲している。君はどうして枕を高くして寝ていられるのだ?」
留侯が言いました「かつて上(陛下)がしばしば困急(困窮)の中にいた時は、幸いにも臣の筴(策)を用いました。今、天下は安定し、愛情によって太子を換えようとしていますが、これは骨肉の間の事です。臣のような者が百余人いたとしても何の益があるでしょう(何の役に立つでしょう)。」
しかし呂澤はますます強制して「私のために計を為せ」と言いました。
留侯はこう言いました「これは口舌によって争っても困難です。今までに上(陛下)でも招くことができなかった者は天下に四人います(四皓を指します。本編参照)。四人は既に年老(老齢)で、皆、上(陛下)が人に対して慢侮(傲慢で侮ること)であると判断したので、山中に逃げ隠れしました。義によって漢臣にならなかったのです。しかし上(陛下)はこの四人を敬重しています。今、公(あなた)が金玉璧帛を愛すことなく、太子のために書をしたため、辞を低くして安車(小車)を準備し、辯士を派遣して強く請うことができれば、彼等も来てくれるでしょう。彼等が来たら客(賓客)として遇し、時折彼等を従えて入朝します。上(陛下)に彼等を見せれば、(上は)必ず不思議に思って(四人に)質問するでしょう。(四人が)質問されたら、上(陛下)は四人の賢を知るので、一助となるはずです。」
呂后は呂澤に命じて使者を派遣させました。使者は太子の書を奉じており、卑辞厚礼で四人を迎えます。

四人が来ると建成侯の府邸で客になりました。

漢高帝十一年、黥布が反しました。高帝は病を患っていたため、太子を将にして討伐させようとします。

それを知った四人は「我々が来たのは太子を守るためだ。太子が兵を率いたら事が危うくなる」と言って建成侯にこう進言しました「太子が兵を指揮したら、功があっても位が高くなることはなく、逆に功がなく帰還したら、それが元で禍を受けることになります。そもそも太子と共に出征する諸将はかつて上(陛下)と一緒に天下を平定した梟将(猛将)ばかりです。今、太子に彼等を指揮させようとしていますが、これは羊に狼を率いさせるのと同じで、誰も敢えて尽力しないでしょう。功がないのは確実です。臣は『母が愛されればその子が抱かれる(母愛者子抱)』と聞いています。今、戚夫人が日夜待御しており(皇帝に侍っており)、趙王如意は常に(陛下の)前で抱かれています。上(陛下)はこう言いました『最後には、不肖の子を愛する子の上に置かせはしない』。(趙王が)必ず太子の位に代わるのは明らかです。あなたはなぜ急いで呂后に請い、機会を探して上(陛下)に泣いてこう言わせないのですか『黥布は天下の猛将で、用兵を善くします。今の諸将は皆、かつては陛下と対等な立場にいました。もし太子に彼等を指揮させたら、羊に狼を指揮させるのと同じなので、太子の指示を聞くはずがありません。しかも布(英布)がそれを聞いたら、戦鼓を敲いて西に向かって来るでしょう。上(陛下)は病ですが、無理にでも輜車に乗って、臥して監督するべきです。そうすれば諸将で尽力しない者はいません。上(陛下)は苦しいと思いますが、妻子のために自強してください』。」

呂澤(呂釋之の誤り)は夜の間に呂后に会って話をしました。
呂后は機会を探して高帝の前で涙を流し、四人が話した内容を訴えました。
高帝は「元々豎子は派遣するに足りないと思っていた。而公(汝の公。高帝)が自ら行くことにしよう。」と答えました。
 
高帝が兵を率いて東に向かい、群臣が都を守ることになりました。皆、霸上まで送ります。
留侯は病でしたが、なんとか起き上がって曲郵に至りました。
張良が高帝に言いました「臣も従うべきですが、病が重すぎます。楚人は剽疾(剽悍強暴)なので、上(陛下)は争鋒を交えてはなりません。」
更に張良は太子を将軍にして関中の兵を監督させるように進言しました。
高帝が言いました「子房張良は病だが、強臥して(臥せたままでもいいから)太子を補佐してくれ。」
当時、叔孫通が太傅だったため、張良は行少傅事(少傅代理)になりました。
 
漢高帝十二年、高帝が英布を打ち破って帰還しました。
高帝は病がひどくなり、ますます太子を廃立したいと思うようになります。留侯が諫言しても聞かないため、留侯は病を理由に政事から離れました。
叔孫太傅(叔孫通)が古今の教訓を引用して太子のために争ったため、高帝は同意したふりをしましたが、心中ではまだあきらめませんでした。
 
ある安閑とした日(原文「及燕」。「燕」は「安閑」「安寧」の意味です。恐らく高帝の病が落ち着いて時間ができた時という意味です)、酒宴を開きました。太子が同席します。
太子には四人の老人が従いました。四人とも八十余歳で、鬚眉は皓白(白く光ること)としており、衣冠はとても壮美です。
高帝が不思議に思って問いました「彼等は何者だ?」
四人は進み出てそれぞれ名を言いました。
高帝は四人が東園公、角里先生、綺里季、夏黄公だと知り、驚いて言いました「わしは公等を数歳(数年)も求めてきたが、公等はわしを避けて逃走した。今、公等はなぜ自ら我が子に従って交遊しているのだ?」
四人がそろって言いました「陛下は士を軽んじてよく人を罵倒します。臣等は義によって辱を受けるわけにはいかないので、恐れて亡匿しました。しかし太子の為人は仁孝で、恭敬な態度で士を愛しており、天下には頸(首)を伸ばして太子のために死を願わない者はいないと聞きました。だから臣等は出て来たのです。」
高帝が言いました「公等にはこれからも太子の調護(教育補佐)をお願いしよう。」
四人は高帝のために寿を祝ってから(酒を勧めてから)小走りで去りました(太子も一緒のはずです)
高帝は目で送ってから戚夫人を招き、四人を指さしてこう言いました「わしは太子を代えたかったが、あの四人が補佐しているので羽翼が既に完成してしまった。これを動かすのは難しい。呂后が汝の主になるのは確実だ。」
戚夫人は泣き始めました。
高帝が言いました「わしのために楚の舞を披露してくれ。わしが汝のために楚の歌を歌おう。」
歌の内容はこうです。

鴻鵠高飛一挙千里(大鴻が髙く飛んで千里に至る)

羽翮已就横絶四海(既に翼ができて四海を横断する)

横絶四海当可柰何(四海を横断したらどうしようもない)

雖有矰繳尚安所施(たとえ矢があっても成す術がない)

太子の地位が確定して動かせなくなったことを歌っています。
 
歌は数回繰り返されました。歌い終わると戚夫人がむせび泣いて涙を流します。
高帝は立ち上がって去り、酒宴が終わりました。
太子の廃立が行われなかったのは留侯が四人を招いたおかげです。
 
 

以上が『史記・留侯世家』の内容で、『漢書張陳王周伝(巻四十)』も収録しています。

しかし『資治通鑑』はこの内容を採用していません。その理由が胡三省注(元は『資治通鑑考異』)に書かれているので、簡単に紹介します。
高帝は剛猛伉厲(剛直)なので、搢紳(官員や儒者の謗りを恐れたとは思えません。大臣が太子廃立に反対したため、高帝の死後、趙王が自分の地位を守れなくなるのではないかと心配したのが、廃立をあきらめた理由のはずです。
もしも高帝が強い意思を持って太子廃立を決定していたら、張良のように長く仕えた近臣でも「口舌で争えることではない」と判断しているので、山林の四老人が口出しして阻止できるような問題ではありません。もし四老人が口出しして高帝の決定を阻止しようとしたとしても、高祖の数寸の刃を汚すことになっただけです(四人が殺されるだけで、高帝の意思は変えられません)。「翼が完成してしまったから矢を射てもどうしようもない(羽翮已成,繒繳安施)」などという歌を歌う必要があるでしょうか。
また、もし四老人が高帝の決定を阻止して太子廃立を中止させることができたとしたら、それは留侯が子(太子)のために党を作って父(高帝)を制したことになります。留侯がそのようなことをするはずがありません。
これは辯士が四老人の賢才を夸大に伝えようとして作った話です。
かつても蘇秦が六国と合従したため秦兵が十五年にわたって函谷関を窺おうとしなかったという話や、魯仲連が新垣衍を論破したため秦将が五十里も退却したという話がありました。四老人の故事もこれらと同じで、事実とは思えません。
司馬遷は奇(特殊な事、不思議な事)を好んだので『史記』の中にこのような話を多数収録しましたが、『資治通鑑』では全て削除しています。