西漢時代 高帝(十七) 大風の歌 前195年(1)

今回は西漢高帝十二年です。四回に分けます。
 
西漢高帝十二年
丙午 前195
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
冬十月、高帝が英布軍と蘄県西の會(または「會缶」。地名)で遭遇しました。
英布軍には精鋭がそろっていたため、高帝は庸城で守りを固めました。
英布軍の陣を眺めると項籍項羽の陣に似ていたため心中で嫌悪します。
 
高帝が遠くから英布に問いました「何を苦にして反したのだ?」
英布は「帝になりたいだけだ!」と答えます。
高帝は怒って英布を罵倒しました。
これがきっかけで両軍が会戦し、英布軍が敗走します。
英布は撤退して淮河を渡ってから、何度か留まって戦いましたが勝てませんでした。
英布は百余人と共に江南に逃走し、高祖は別将に追撃を命じました。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
高帝が帰還しました。
途中、故郷の沛に駐留し、沛宮で酒宴を開きます。
故人(故知)、父老、諸母(年上の女性)、子弟を全て招いて同席させ、往時を語って笑い楽しみました。
沛の児童百二十人を動員して歌を歌わせ、酒がまわり始めると、高帝も自ら筑を打って歌を歌いました。
 
大風起兮雲飛揚,
威加海内兮帰故郷,
安得猛士兮守四方。
 
この歌を「大風の歌」といいます。以下、少し解説します。
最初の二句は「大風が吹いて雲が巻き上がった。高祖の威光は天下に拡がり、今故郷に錦を飾った」という意味です。
秦を滅ぼして項羽を敗り諸侯を統一した高帝は、まさに得意の絶頂にいました。
しかし第三句では「どうやったら猛士を得て四方を守ることができるだろうか」と言っています。
これは韓信、彭越、英布といった功臣の裏切りを嘆いていると解釈することができます。「功臣は大勢いるのに、本当に漢のことを思って忠誠を誓ってくれる壮士猛士はどこにいるのだろうか」という意味です。
同時に、晩年を迎えた高祖が次の世代の平穏を願うと共に、まだ不安定な天下の行く末を心配しているとも読めます。「私の時代はもうすぐ終わり、才能の劣る息子の時代になる。しかし天下はまだ安定していない。我が子孫を守る壮士猛士はどこにいるのだろうか」という意味です。
高帝はこの歌を百二十人の児童に教えました。これを前提にすると、最期の部分は故郷の児童に託したものとも読めます。「漢を守る忠義の士はどこにいるのだろうか。お前達故郷の若者にそれを託したい」となります。
解釈が分かれる歌ですが、平民から皇帝になった高祖の感慨を表わした名詩として知られています。
 
本文に戻ります。
高帝は児童に歌を教えて唱和させ、自ら舞を披露しました。激昂して胸を詰まらせ、数行の涙を流します。
 
高帝が沛の父兄に言いました「游子(家を離れた子)は故郷を想っている。私は関中に都を置いたが、万歳崩御の後、私の魂魄はやはり喜んで沛を想うだろう。朕は沛公として挙兵し、暴逆を誅してついに天下を有した。よって沛を朕の湯沐邑とし、その民の賦役を免じ、世世(代々)(賦役の義務を)与えないことにしよう。」
湯沐邑というのは諸侯の私邑を指します。本来、湯沐邑の税収は所有する諸侯に入りますが、沛は高帝の湯沐邑になったので、郡県にも諸侯にも税を納める必要がなくなりました。
 
高帝は沛の人々と十余日に渡って宴を楽しんでから去りました。
沛の父兄が頑なに高帝を留めようとしましたが、高帝は「私に随行する者は多い。父兄が養うことはできない」と言って出発しました。
 
沛の人々は県を空にして高帝を送り、邑の西で牛酒を献上しました。
高帝は再び留まって帷帳を張り、三日間酒宴を開きます。
沛の父兄がそろって頓首して言いました「沛は幸にも賦役を免除されました(幸得復)。しかし豊はまだです。陛下の哀憐を請います。」
高帝が言いました「豊は私が生まれ育った所だから忘れるはずがない。(恩恵を与えないのは)ただ雍歯がかつて私に反して魏に附いたからだ。」
それでも沛の父兄が頑なに請願したため、豊も沛と同等にされました。

漢書・高帝紀上』によると、高帝は「沛豊邑中陽里の人」なので、豊邑は沛県に属していたはずです。しかし『漢書・地理志上』では沛郡(『地理志』の注釈によると、秦の泗水郡に属し、高帝が改名しました)の下に沛県と豊県があります。豊邑は沛県から独立して県になったようです。
 
[] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
漢の別将が英布軍を洮水の南と北で撃ち、いずれも大勝しました。
英布は番君(呉芮)と婚姻関係にあったため、長沙成王呉臣(呉芮の子)が人を送って英布を誘いました。偽って共に越に逃げるように勧めます。英布は信じて誘いに従いました。
しかし番陽の人が布茲郷(番陽付近の地名)の民の田舍(農村の家)で英布を殺しました。
 
漢書高恵高后文功臣表』によると、英布挙兵のきっかけを作った賁赫は本年十二月に期思侯に封じられました。一千戸です。
賁赫は西漢文帝時代に死んで家系が途絶えました。諡号を康侯といいます。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
周勃が代郡、雁門および雲中の地を全て平定し、陳豨を当城(代郡)で斬りました。
 
漢書帝紀』と『資治通鑑』は、陳豨を斬ったのは周勃としています。
しかし『史記高祖本紀』は「樊噲が別に兵を率いて代を平定し、陳豨を当城で斬った」としています。
史記韓信盧綰列伝(巻九十三)』にも「漢が樊噲を送って陳豨を撃ち、斬らせた」とあります。
 
史記樊酈滕灌列伝(巻九十五)』を見ると、「(樊噲が)陳豨の胡騎匈奴騎兵)を横谷で破り、将軍趙既を斬り、代の丞相馮梁、守(郡守)孫奮、大将王黄、将軍、太卜、太僕解福等十人を捕え、諸将と共に代の郷邑七十三を平定した」とあり、『漢書樊酈滕灌傅靳周伝(巻四十一)』も「(樊噲が)陳豨の胡騎を横谷で破り、将軍趙既を斬り、代の丞相馮梁、守孫奮、大将王黄、将軍大将一人、太僕解福等十人を捕え、諸将と共に代の郷邑七十三を平定した」としています。
樊噲が陳豨を斬ったいう記述はありません。
 
資治通鑑』胡三省注は、「陳豨を斬ったのは周勃であって樊噲ではない」としています。『史記高祖本紀』は誤りで、『漢書帝紀』が正しいことになります。
 
更に『史記絳侯周勃世家』を見ると、「(周勃が)陳豨を霊丘で撃って破り、陳豨を斬って陳豨の丞相程縱、将軍陳武、都尉高肆を捕えた。代郡九県を平定した」と書いています。
これに対して『漢書張陳王周伝(巻四十)』は「(周勃が)陳豨を霊丘で撃って破り、陳豨の丞相程縱、将軍陳武、都尉高肄を斬った。代郡九県を平定した」としており、『史記絳侯周勃世家』を元にしていますが陳豨を斬ったとは明記していません。
 
陳豨が斬られた場所を『漢書帝紀』が「当城」としているのに対して、『史記周勃世家』は「霊丘」としいます。
『中国歴史地図集』を見ると、当城は代県の東北、霊丘は代県の南西にあるので全く別の場所です。
上述の通り、『漢書張陳王周伝』は周勃が陳豨を霊丘で破ったと書いていますが、斬ったとは明記していません。
陳豨は周勃に「霊丘」で敗れてから(『漢書張陳王周伝』)、「当城」で斬られた(『漢書・高帝紀』)のかもしれません。
 
[五] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
高帝が詔を発して言いました「呉は古に建てられた国だが、かつては荊王(楚王劉賈)にその地を兼併させた。今、(楚王は)死んで後がいない(劉賈は前年英布に殺されました。跡継ぎがいなかったようです)。朕は再び呉王を立てたいと思う。相応しい者を議論せよ。」
長沙王呉臣等が言いました「沛侯(劉濞。高帝の兄劉仲の子)は重厚です。呉王にお立てください。」
 
辛丑(二十五日)、荊国を呉国に改めて沛侯劉濞を呉王にしました。三郡五十三城を治めます。
 
ここからは『漢書帝紀』の記述です。『史記』は『呉王濞列伝(巻百六)』に書いており、『資治通鑑』は採用していません。
高帝が劉濞を召して言いました「汝の容貌には反相(謀反の相)がある。」
高帝は劉濞の背を撫でてこう続けます「漢は五十年後に東南で乱が起きる。それは汝ではないか?しかし天下は同姓の一家となった。汝は決して反してはならない。」

劉濞は頓首して「そのような事はできません(不敢)」と答えました。

劉濞は西漢景帝の時代に呉楚七国の乱を起こします。
 
 
 
次回に続きます。