西漢時代 高帝(十八) 盧綰背反 前195年(2)

今回は西漢高帝十二年の続きです。
 
[六] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。

十一月、高帝が淮南から帰って魯を通りました。そこで太牢(牛豚。祭祀の犠牲)を用いて孔子を祀りました。

[七] 『資治通鑑』からです。
高帝が長安に帰還しました。
病がますますひどくなると、太子を換えたいという想いも強くなりました。張良(行太子少傅事。太子少傅を代行しています)が諫めても聞かないため、張良は病を理由に政事から離れました。
 
叔孫通が高帝を諫めて言いました「昔、晋の献公は驪姫のために太子を廃し、奚斉を立てました。そのため晋国は数十年も乱れて天下の笑い者になったのです。秦は早く扶蘇の地位を定めなかったため、趙高に胡亥を詐立(偽って擁立すること)させ、自ら祭祀を滅ぼさせました。これは陛下が自ら見てきたことです。今、太子の仁孝は天下が皆聞き知っています。呂后は陛下と共に苦難と戦い、貧しい日々を乗り越えてきました(攻苦食啖)。それを裏切ってはなりません。陛下が必ず適(嫡子。太子)を廃して少(趙王劉如意)を立てるというのなら、臣はまず誅に伏し、頸血で地を染めることを願います。」
高帝が言いました「公がそうする必要はない。わしは冗談を言っただけだ(吾直戲耳)。」
叔孫通が言いました「太子は天下の本であり、本が一度揺れたら天下が振動します。どうして天下をもって戲(冗談)とすることができるでしょう。」
当時、大臣の多くが強く反対しており、高帝は群臣の心が趙王に向いていないと知ったため、ついにあきらめました。
 
[八] 『資治通鑑』からです。
相国蕭何は長安の地が狭いのに上林苑には多くの空地が放置されているため、民を苑内に入れて田を耕させるように進言しました。苑を利用すれば、穀物の実は民に収穫させ、藁は苑内に残して禽獣の食糧にすることができます。
しかし高帝は激怒して「相国は賈人(商人)から多数の財物を受け取ったに違いない。だからわしの苑を求めるのだ!」と言い、蕭何を廷尉に引き渡して刑具で繋がせました。
数日後、高帝に従っていた王衛尉が進み出て問いました「相国に何の大罪があって、陛下は突然逮捕したのですか?」
高帝が言いました「わしは李斯が秦皇帝の相だった時、善は主に帰して悪は自分に与えたと聞いた。今、相国は賈豎(商人)から多くの金を受け取ったから、彼等のためにわしの苑を請い、民に媚びようとしている。だから獄に繋いで罪を治めることにしたのだ。」
王衛尉が言いました「職事(職務。職責内の事)において民に便があるのなら皇帝に請う、これが真の宰相の行動です。陛下はなぜ相国が賈人の銭を受け取ったと疑うのですか?そもそも、陛下は数歳(数年)に渡って楚と対峙しており、陳豨や黥布が反した時も陛下が自ら将となって討伐に行きました。それらの時にはいつも相国が関中を守っており、もし関中で揺足(動き。動揺)があったら関以西は陛下のものではなくなっていました。相国はその時を利とせず(そのような好機を利用せず)、今になって賈人の金を利(自分の利益)とするでしょうか?それに秦は自分の過失を聞かなかったから(李斯が皇帝の過ちを隠したから)天下を失ったのです。李斯の分始皇帝との責任の分担)という過ちに、どうして倣う必要があるのですか。陛下はなぜこのように簡単に宰相を疑うのですか?」
高帝は王衛尉の諫言に納得して慚愧しました(帝不懌)
 
その日、高帝の使者が符節を持って蕭何を迎えに行きました。
蕭何は老齢でしたが、かねてから恭謹だったため、入宮する前に裸足になって恩を謝しました。
高帝が言いました「相国がそのようにする必要はない。相国は民のために苑を求め、わしはそれを許さなかった。わしは桀紂のような主に過ぎず、相国は賢相である。わしが相国を繋いだのは百姓にわしの過ちを知らせたかったからだ。」
 
[九] 『漢書帝紀』からです。
十二月、高帝が詔を発しました「秦皇帝、楚隠王陳勝、魏安釐王、斉愍王、趙悼襄王は全て後代が絶えてしまった。今、秦始皇帝の冢(墓)を守るために二十家を与え、楚斉には各十家を、趙および魏の公子亡忌(無忌。信陵君)には各五家を与える。それぞれ冢を管理せよ。その他の事賦役は免除する。」
 
史記高祖本紀』は少し異なります。

高祖がこう言いました「秦始皇帝、楚隠王陳渉、魏安釐王、斉湣王、趙悼襄王は全て後代が絶えてしまった。冢を守るために各十家を与えよう。秦皇帝は二十家、魏の公子無忌は五家とする。」

[十] 『史記高祖本紀』からです。
代地の吏民でも陳豨や趙利に劫掠(侵犯)された者は全て赦しました。
 
[十一] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
陳豨が代で謀反した時、燕王盧綰は兵を発して陳豨の東北を攻撃していました(代の東北に燕があります)
陳豨は王黄を匈奴に送って援軍を求めましたが、燕王盧綰も自分の臣張勝を匈奴に送って「陳豨等の軍は既に破れた」と伝えさせました。
 
匈奴には元燕王臧荼の子臧衍が逃走していました。張勝が胡匈奴に入ると、臧衍が会いに来て言いました「公が燕で尊重されているのは胡の事に詳しいからです。燕が久しく存続できているのは、諸侯がしばしば反しており、戦が続いて解決できないからです。今、公は燕のために働いており、急いで陳豨等を滅ぼそうとしていますが、陳豨等が全て亡んだら次は燕の番になるので、公等もまた虜になります。公はなぜ燕に陳豨討伐を緩めさせ、胡と和を結ばせないのですか。事が緩和されたら長い間、燕の王を称すことができます。もし漢に急(変事)があったら、国(燕国)を安んじることができます。」
納得した張勝は秘かに匈奴と連絡を取り、匈奴に陳豨等を助けて燕を撃たせました。
燕王盧綰は張勝が匈奴と一緒に反したと疑い、張勝族滅の許可を求めるために上書しました。
しかし張勝が帰って詳しく説明すると、燕王は偽って他の者に刑を処し、張勝の家属を助けました。張勝には匈奴との間を行き来させます。
また、陳豨には長い間存続して欲しいため、秘かに范斉を送って兵を連ねるだけで決戦を避けるように伝えました。
 
漢が黥布(英布)を討伐した時、陳豨は代で兵を指揮していました。
漢が陳豨を斬ってから、その裨将が漢に投降し、燕王盧綰が范斉を送って陳豨と計謀を通じさせていたことを暴露しました。
高帝は使者を送って盧綰を招きましたが、盧綰は病と称して拒否します。
高帝は辟陽侯審食其(審が姓。食其が名)御史大夫趙堯を送って燕王を迎えさせ、ついでに燕王の左右の者を調査させました。
盧綰はますます恐れ、門を閉じて隠れてしまいました。
盧綰が幸臣(寵臣)に言いました「劉氏以外で王位にいるのはわしと長沙王だけだ。往年の春、漢は淮陰韓信を族滅した。夏には彭越を誅殺した。全て呂氏の計によるものだ。今、上(陛下)は病で呂后に全てを任せている。しかし呂后という婦人は理由を見つけて異姓王(劉氏以外の王)や大功臣の誅殺を進めることだけを欲している。」
盧綰は病と称して長安に行こうとせず、左右の者も皆身を隠しました。
やがて盧綰の言葉が漏れて審食其の耳に入りました。審食其は長安に帰って「盧綰に謀反の兆しがある」と詳しく報告します。高帝はますます激怒しました。
同じ頃、匈奴から投降した者が「張勝が匈奴に逃亡しており、燕の使者となっている」と報告しました。
高帝は「やはり盧綰は反した」と言いました。
 
春二月、高帝が樊噲に命じて相国の名義で兵を指揮させ、盧綰を討伐させました(これは『資治通鑑』の記述です。『史記高祖本紀』『漢書帝紀』では「樊噲と周勃に兵を率いて燕王綰を撃たせた」となっています)
 
高帝が燕の吏民で謀反に関わった者を赦す詔を発しました「燕王綰はわしと故(古いつきあい)があり、我が子のように愛してきた。陳豨との間で謀があると聞いても、わしはそのような事はないと思い、人を送って綰を迎えさせた。ところが綰は疾(病)と称して来なかった。謀反は明らかである。燕の吏民に罪はない。六百石以上の官吏にはそれぞれ爵一級を与える。今まで綰と一緒にいたとしても、彼から去って帰順した者は罪を赦し、爵一級を加える。」
 
高帝は諸侯王に詔を発し、燕王に相応しい者を推挙させました。長沙王呉臣等が皇子劉建を燕王に立てるように請います。
こうして皇子劉建が盧綰の代わりに燕王に立てられました。
 
[十二] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
高帝が詔を発しました「南武侯織も粤の世(世家。貴族)なので、南海王に立てる。」
 
資治通鑑』胡三省注から解説します。
高帝五年、象郡桂林南海長沙を呉芮に与えて長沙王に封じました。しかし象郡桂林南海は尉佗(趙佗)に属しています。この時はまだ尉佗が漢に降っていなかったため、尉佗から三郡を奪って長沙王の領地にしましたが、あくまでも名義上のことで、実際に長沙王が三郡を統治したわけではありません。
高帝十一年に尉佗が漢の南越王に立てられ、象郡桂林南海の三郡を治めることになりました。この時の長沙王の領地は長沙と桂陽のみになります。
今回、南海王が立てられたため、名義上は南越王の領地から南海郡を割きましたが、実際には南海王が治める土地はありません。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代 高帝(十九) 高帝崩御 前195年(3)