西漢時代 高帝(十九) 高帝崩御 前195年(3)

今回も西漢高帝十二年の続きです。
 
[十三] 『漢書帝紀』からです。
三月、高帝が詔を発しました「わしは立って天子となり、帝を称して天下を有してから、今で十二年になる。天下の豪士賢大夫と共に天下を平定し、共に安輯(安定)させた。功がある者は、上は王位に上り、次は列侯となり、下には食邑を与えた。重臣の親族も、ある者は列侯となり、皆自分で官吏を置かせ、賦斂(税収)を取らせ、女子も公主とした(女子にも邑を与えた)。列侯として食邑を有した者は印を佩し、大第室(邸宅)を下賜した。二千石の官吏は長安に遷して小第室(邸宅)を与えた。蜀漢に入って三秦を平定した者は全て世世(代々)賦役を免除した。わしは天下の賢士功臣に対して裏切っていない。それなのに、もし不義によって天子に背き、勝手に兵を挙げる者がいたら、天下と共に伐誅する。これを天下に布告して、朕の意思を明知させよう。」
 
[十四] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
高帝は英布を討伐した時に流矢に中りました。元々病を患っていたうえ、怪我まで負ったため、行軍中に病状が悪化します。
長安に戻ってから呂后が良医を招きました。医者が高帝を診察します。
高帝が医者に病状を問うと、医者は「疾(病)は治せます」と答えました。
すると高帝は罵ってこう言いました「わしは布衣(庶人)でありながら三尺(剣)を手に持って天下を取った。これが天命ではないというのか。命は天にある。たとえ扁鵲(古代の名医)がいたとしても何の役にも立たない。」
高帝は医者に治療させず、黄金五十斤を下賜して帰らせました。
 
暫くして呂后が高帝に問いました「陛下の百歳崩御の後、蕭相国も死んだら誰に代わらせるべきですか?」
高帝が言いました「曹参がいい(曹参可)。」
呂后が次を聞くと高帝が言いました「王陵がいい(王陵可)。しかし少し戇(愚か)だ。陳平なら助けられる。陳平の智慧には余りがあるが、単独で任せるのは難しい。周勃は重厚少文(誠実で言葉が少ないこと。敦厚で飾らないこと)だが、劉氏を安定させるのは周勃に違いない。太尉に任命できる。」
呂后が更に次を聞きましたが、高帝は「それ以降は汝も知ることではない」と答えました。
 
夏四月甲辰(二十五日)、高帝が長楽宮で死にました。
漢書帝紀』顔師古注は高帝の享年を「五十三歳」としており、『資治通鑑』胡三省注もこれに倣っていますが、『帝王世家』には「六十二歳」と「六十三歳」という説が書かれています。
 
丁未(二十八日)、喪を発して天下に大赦しました。
 
四日間(足掛け)喪を発さなかった理由について、『史記高祖本紀』と『漢書帝紀』はこう書いています
呂后が審食其と謀って言いました「諸将は帝と同じく平民の戸籍に入れられていましたが(編戸民)、今は北面して臣下となっており、常に怏怏(不満な様子)としています。そしてこれからは少主に仕えることになりました。全て族滅しなければ、天下を安定できないでしょう。」
ある人がこれを聞いて酈将軍(『史記高祖本紀』では「酈将軍」。『漢書帝紀』では「酈商」)に伝えました。
そこで酈将軍が審食其に会いに行ってこう言いました「帝が既に崩じたのに、四日間も喪を発さず、諸将を誅滅しようとしていると聞きました。本当にそのような事をしたら、天下が危うくなります。陳平と灌嬰は十万の兵を指揮して滎陽を守っており、樊噲と周勃は二十万の兵を指揮して燕と代を平定しています。帝の崩御と諸将が全て誅殺された事を聞いたら、必ず兵を率いて引き返し、関中を攻めるでしょう。大臣が内で叛して諸侯が外で反したら、滅亡がすぐ至ります(原文「亡可蹻(翹)足而待也」。「蹻足」は足を挙げることで、「蹻足而待」は足を挙げるだけの短い間に結果が訪れるという意味です)。」
審食其は入宮してこれを呂后に話しました。
丁未、高帝の喪を発して天下に大赦しました。
 
資治通鑑』はこの内容を採用していません。胡三省注はその理由を、「呂后が暴虐とはいえ、一日にして大臣を全て誅殺するはずはなく、陳平が滎陽にいたというのも誤りだから」と解説しています(下記記述を見ると陳平は滎陽の守りについていません)
 
[十五] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
盧綰と数千人は辺境の要塞で様子を伺っていました。本来は高帝の病が良くなってから自ら上京して謝罪するつもりでした。高帝とは幼馴染なので理解してもらえると信じていたようです。
しかし高帝が死んだと聞き、匈奴に亡命しました。
 
[十六] 『史記高祖本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
五月丙寅(十七日)、高帝を長陵に埋葬しました。
漢書・高帝紀下』の注によると、長陵は長安の北四十里の場所にあります。
 
己巳(二十日)、皇太子・劉盈と群臣が太上皇廟に行きました。
漢書帝紀』は「己巳」を「已下(高帝の埋葬が終わってから)」としていますが、『史記集解』は『漢書』を誤りとしています。『資治通鑑』も『史記』に倣って「己巳」としています。
 
群臣が言いました「帝は細微(庶民)から身を起こし、乱世を治めて正道を還し(撥乱世反之正)、天下を平定して漢の太祖になりました。その功は最も高いものです。」

こうして高皇帝の尊号が贈られることになりました。

太子が皇帝の位を継ぎました。孝恵帝(恵帝)といいます。
皇后呂氏は皇太后になりました
 
史記太后本紀』『漢書外戚恩沢侯表(巻十八)』からです。
呂后は剛毅な性格で、高帝の天下統一を補佐してきました。諸大臣の誅殺も多くが呂后の力によるものです。
呂后には二人の兄がおり、どちらも将になりました。長兄は周呂侯呂澤です。『外戚恩沢侯表』によると高帝六年正月に封侯されましたが、高帝八年に死にました。諡号は令武侯です。
呂澤の死後、子の呂台が跡を継ぎました。『外戚恩沢侯表』によると、高帝九年に酈侯(または「鄜侯」)に改められます。
呂台には呂産という弟がおり、西漢少帝元年(前187年)に、洨侯(または「郊侯」「交侯」「汶侯」)に封じられます。
呂后の次兄は呂釋之といい、建成侯に封じられています。西漢恵帝二年(前193年)に死にます。諡号は康侯です。
 
史記高祖本紀』からです。
恵帝五年になって、沛を訪ねた時の高祖の悲楽な姿を想って沛宮を高祖原廟にしました。原廟というのは正廟以外に立てられた宗廟です。
高祖が歌を教えた百二十人の児童を集めて廟で吹楽(演奏)する人員とし、欠員が生じたらすぐに補充することにしました。
 
史記高祖本紀』と『史記太后本紀』からです。
高帝には八人の男児がいました。
庶子は斉悼恵王劉肥です。『史記・斉悼恵王世家(巻五十二)』によると、母は外婦正室以外の妻。または私通した女性)で曹氏(『呂后世家』の注釈では「曹姫」)といいます。
次子は恵帝で呂后の子です。
次は戚夫人の子で趙隠王劉如意です。
次は薄夫人(後の薄太后の子で代王劉恒、後の文帝です。
次は梁王劉恢で、呂太后専制した時に遷されて趙共王になります。
次は淮陽王劉友で、呂太后専制した時に遷されて趙幽王になります。
次は淮南厲王劉長で、最後は燕王劉建です。
後半の四人は諸姫の子です。
また、高祖の弟交は楚王に、兄の子劉濞は呉王に封じられています。
劉氏以外の功臣では番君呉芮の子呉臣が長沙王を継承しています。
 
漢書帝紀』と『資治通鑑』および胡三省注から高帝に関する評価です。
高祖は文学(学問)を修めませんでしたが、為人が明達(聡明通達)で、謀略を好み、よく人の意見を聞き、監門や戍卒でも旧知に会ったように親しく接することができました。
始めは民心に順じるために三章の約(法)を作りましたが、天下が安定してからは蕭何に律令を整理させました。蕭何は秦法から取捨して時勢に適した内容を選び、律九章を作ります。
張良韓信に命じて軍法(兵法)を明らかにさせました。百八十二家の学説から要点を選んで三十五家の著書にまとめます。
張蒼が章程を定めました。『漢書』の注釈によると、「章」は暦法、「程」は権(度量衡)の決まりです。
叔孫通が礼儀を制定しました。
陸賈が『新語(興亡の教訓を書いた書)』を編纂しました。
また、功臣に剖符を与えて誓いを立てさせ、赤い文字で書いて鉄に誓約を刻み(丹書鉄契。鉄の板に朱砂で誓約を書きました)、金匱(金属の箱)に入れてから石室(石の箱)にしまって宗廟で保管しました。
高帝は日々忙しく暇がありませんでしたが(『資治通鑑』胡三省中によると、項羽を平定してからも諸侯の反乱が相次いだことを指します)、規摹(法律制度)の内容は広大深遠でした。
 
 
 
次回に続きます。