西漢時代 高帝(十九) 高帝崩御 前195年(3)
今回も西漢高帝十二年の続きです。
三月、高帝が詔を発しました「わしは立って天子となり、帝を称して天下を有してから、今で十二年になる。天下の豪士賢大夫と共に天下を平定し、共に安輯(安定)させた。功がある者は、上は王位に上り、次は列侯となり、下には食邑を与えた。重臣の親族も、ある者は列侯となり、皆自分で官吏を置かせ、賦斂(税収)を取らせ、女子も公主とした(女子にも邑を与えた)。列侯として食邑を有した者は印を佩し、大第室(邸宅)を下賜した。二千石の官吏は長安に遷して小第室(邸宅)を与えた。蜀漢に入って三秦を平定した者は全て世世(代々)賦役を免除した。わしは天下の賢士功臣に対して裏切っていない。それなのに、もし不義によって天子に背き、勝手に兵を挙げる者がいたら、天下と共に伐誅する。これを天下に布告して、朕の意思を明知させよう。」
高帝は英布を討伐した時に流矢に中りました。元々病を患っていたうえ、怪我まで負ったため、行軍中に病状が悪化します。
高帝が医者に病状を問うと、医者は「疾(病)は治せます」と答えました。
すると高帝は罵ってこう言いました「わしは布衣(庶人)でありながら三尺(剣)を手に持って天下を取った。これが天命ではないというのか。命は天にある。たとえ扁鵲(古代の名医)がいたとしても何の役にも立たない。」
高帝は医者に治療させず、黄金五十斤を下賜して帰らせました。
高帝が言いました「曹参がいい(曹参可)。」
呂后が次を聞くと高帝が言いました「王陵がいい(王陵可)。しかし少し戇(愚か)だ。陳平なら助けられる。陳平の智慧には余りがあるが、単独で任せるのは難しい。周勃は重厚少文(誠実で言葉が少ないこと。敦厚で飾らないこと)だが、劉氏を安定させるのは周勃に違いない。太尉に任命できる。」
呂后が更に次を聞きましたが、高帝は「それ以降は汝も知ることではない」と答えました。
夏四月甲辰(二十五日)、高帝が長楽宮で死にました。
呂后が審食其と謀って言いました「諸将は帝と同じく平民の戸籍に入れられていましたが(編戸民)、今は北面して臣下となっており、常に怏怏(不満な様子)としています。そしてこれからは少主に仕えることになりました。全て族滅しなければ、天下を安定できないでしょう。」
そこで酈将軍が審食其に会いに行ってこう言いました「帝が既に崩じたのに、四日間も喪を発さず、諸将を誅滅しようとしていると聞きました。本当にそのような事をしたら、天下が危うくなります。陳平と灌嬰は十万の兵を指揮して滎陽を守っており、樊噲と周勃は二十万の兵を指揮して燕と代を平定しています。帝の崩御と諸将が全て誅殺された事を聞いたら、必ず兵を率いて引き返し、関中を攻めるでしょう。大臣が内で叛して諸侯が外で反したら、滅亡がすぐ至ります(原文「亡可蹻(翹)足而待也」。「蹻足」は足を挙げることで、「蹻足而待」は足を挙げるだけの短い間に結果が訪れるという意味です)。」
審食其は入宮してこれを呂后に話しました。
丁未、高帝の喪を発して天下に大赦しました。
『資治通鑑』はこの内容を採用していません。胡三省注はその理由を、「呂后が暴虐とはいえ、一日にして大臣を全て誅殺するはずはなく、陳平が滎陽にいたというのも誤りだから」と解説しています(下記記述を見ると陳平は滎陽の守りについていません)。
盧綰と数千人は辺境の要塞で様子を伺っていました。本来は高帝の病が良くなってから自ら上京して謝罪するつもりでした。高帝とは幼馴染なので理解してもらえると信じていたようです。
しかし高帝が死んだと聞き、匈奴に亡命しました。
五月丙寅(十七日)、高帝を長陵に埋葬しました。
群臣が言いました「帝は細微(庶民)から身を起こし、乱世を治めて正道を還し(撥乱世反之正)、天下を平定して漢の太祖になりました。その功は最も高いものです。」
こうして高皇帝の尊号が贈られることになりました。
太子が皇帝の位を継ぎました。孝恵帝(恵帝)といいます。
恵帝五年になって、沛を訪ねた時の高祖の悲楽な姿を想って沛宮を高祖原廟にしました。原廟というのは正廟以外に立てられた宗廟です。
高祖が歌を教えた百二十人の児童を集めて廟で吹楽(演奏)する人員とし、欠員が生じたらすぐに補充することにしました。
高帝には八人の男児がいました。
次子は恵帝で呂后の子です。
次は戚夫人の子で趙隠王・劉如意です。
次は淮南厲王・劉長で、最後は燕王・劉建です。
後半の四人は諸姫の子です。
また、高祖の弟・劉交は楚王に、兄の子・劉濞は呉王に封じられています。
劉氏以外の功臣では番君・呉芮の子・呉臣が長沙王を継承しています。
高祖は文学(学問)を修めませんでしたが、為人が明達(聡明通達)で、謀略を好み、よく人の意見を聞き、監門や戍卒でも旧知に会ったように親しく接することができました。
始めは民心に順じるために三章の約(法)を作りましたが、天下が安定してからは蕭何に律・令を整理させました。蕭何は秦法から取捨して時勢に適した内容を選び、律九章を作ります。
叔孫通が礼儀を制定しました。
陸賈が『新語(興亡の教訓を書いた書)』を編纂しました。
また、功臣に剖符を与えて誓いを立てさせ、赤い文字で書いて鉄に誓約を刻み(丹書鉄契。鉄の板に朱砂で誓約を書きました)、金匱(金属の箱)に入れてから石室(石の箱)にしまって宗廟で保管しました。
次回に続きます。