西漢時代 恵帝(一) 呂后の復讐 前194年

今回から西漢恵帝の時代です。
 
孝恵皇帝
高帝劉邦の嫡長子で劉盈といいます。母は呂皇后です。
漢代の皇帝は諡号に「孝」をつけました。「孝恵皇帝」「孝文皇帝」「孝景皇帝」「孝武皇帝」等です。但し通常は「孝」を省いて「恵帝」「文帝」「景帝」「武帝」といいます。
 
恵帝の在位年数は七年しかなく、その後に二人の少帝が継ぎますが、二帝の在位年数も合わせて八年しかありません。恵帝と二人の少帝の時代は、高帝の妻太后(恵帝の実母)が実権を握っていました。
漢書』は三帝時代を非常に短い『恵帝紀』と『高后紀』に分けていますが、『史記』は恵帝の本紀を置かず、『呂太后本紀』にまとめて書いています。
 
漢書帝紀によると、劉盈(恵帝)が五歳の時に高祖劉邦が漢王になりました。漢王二年(前205年)、劉盈が太子に立てられます。
高帝十二年(前195年)四月、高帝が死に、五月、劉盈が皇帝の位に即きました(『漢書帝紀』は即位の日を「五月丙寅(十七日)」としていますが、「己巳(二十日)」の誤りです)
恵帝は呂皇后を尊んで皇太后にしました。
 
この記述を見ると、高帝が死んで恵帝が即位した時、恵帝は十六歳だったことになります。
史記太后本紀』の注(集解)にも「恵帝は秦始皇三十七年(前210年。この年が一歳です)に生まれ、崩御した時は二十三歳だった」と書かれているので(『集解』は『帝王世家』の記述を引用しています)、即位した時は十六歳、恵帝元年は十七歳になります。
漢書』顔師古注と『資治通鑑』胡三省注は、「恵帝は十七歳で即位して享年は二十四歳だった」としていますが、恐らく誤りです。
 
 
西漢恵帝元年
丁未 前194
 
[] 『史記太后本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
冬十二月、恵帝が早朝に狩りに行きました。
趙王劉如意は幼少だったため朝早く起きることができず、恵帝と離れてしまします。
太后は恵帝が一人になったと聞き、人を送って酖という毒を飲ませました。
黎明、恵帝が還った時には、趙王は既に死んでいました。
劉如意の諡号は隠王といいます。
 
太后の復讐はまだ続きます。
劉如意の母戚夫人の手足を斬り、眼(目)をえぐり、耳を薬草で燻って聞こえなくし(煇耳)、瘖薬(声が出なくなる薬)を飲ませ、厠に住ませて「人彘」と名づけました。「彘」は「豚」の意味です。
数日後、呂太后が恵帝を招いて人彘を見に行きました。
恵帝はそれが戚夫人だと知って大哭し、病を患って一年以上も起き上がれなくなりました。
 
漢書外戚伝上(巻九十七上)』は戚夫人を置いた場所を「厠」ではなく「鞠域」としており、東漢の荀悦による『前漢前漢孝恵皇帝紀(卷第五)』では「鞠室」になっています。「鞠域」「鞠室」とも蹴鞠をする場所です。『漢書』顔師古注は「窟室」としているので、地下にあったようです。
清代の『史記志疑』は「厠には住むことができず、恵帝が視に行けるはずもない」ので、「鞠域」「鞠室」が正しいとしています。
 
恵帝は人を送って呂太后にこう伝えました「あのようなことは人が為すことではありません。臣は太后の子として、もう天下を治めることはできません。」
恵帝はこの日から酒に溺れて淫楽し、政治を行わなくなりました。ますます健康が害されていきます。
 
資治通鑑』の編者司馬光は恵帝をこう評しています。
「高祖の業を守って天下の主になりながら、母の残酷な行為に忍びず、国家を棄てて顧ることがなくなり、酒色に溺れて自分の体を損なうということがあっていいはずがない。孝恵皇帝のような者は、小仁に固執して大誼大義を理解できなかったと言うべきだ。」
 
尚、戚夫人への復讐を『史記太后本紀』は夏の事としていますが、『資治通鑑』は趙王劉如意殺害(正月)の直後に書いています。『漢書』は『恵帝紀』ではなく『外戚伝上(巻九十七上)』に書いており、何月の事かは明記していません。
 
[] 『史記太后本紀』と資治通鑑』からです。
淮陽王劉友(高帝の庶子を趙王に遷しました。劉如意の代わりです。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
民が罪を犯しても三十級の爵位に相当する金銭を払えば死罪を免じることにしました。
漢書』の注によると、爵位一級は銭二千に相当するので、三十級は銭六万になります。
 
また、民に爵位を下賜しました。「賜民爵戸一級」とあります。
恵帝五年九月にも「賜民爵戸一級」という記述があり、顔師古は「戸一級」を「家長が(爵一級を)受けた」と注釈しています。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
春正月、長安西北に城壁を築きました。
資治通鑑』胡三省注によると、西漢長安を都にして未央宮、長楽宮等の宮殿を築きましたが、城壁はまだなかったようです。この年から長安城の建築が始まりました。
 
[] 『史記太后本紀』からです。
夏、恵帝が詔を発し、酈侯呂台の父に追諡(改めて諡号を贈ること)して令武侯としました。
呂台の父は呂澤で、呂后の兄に当たります。周呂侯でしたが、高帝八年に死にました(高帝十二年195年参照)
 
[] 『史記漢興以来諸侯王年表』と『漢書異姓諸侯王表』と漢書韓彭英盧呉伝(巻三十四)によると、この年、長沙王呉臣が死にました。諡号は成王です。
子の哀王呉回が跡を継ぎました。

 
 
次回に続きます。