西漢時代 恵帝(一) 呂后の復讐 前194年
今回から西漢恵帝の時代です。
孝恵皇帝
恵帝は呂皇后を尊んで皇太后にしました。
この記述を見ると、高帝が死んで恵帝が即位した時、恵帝は十六歳だったことになります。
『史記・呂太后本紀』の注(集解)にも「恵帝は秦始皇三十七年(前210年。この年が一歳です)に生まれ、崩御した時は二十三歳だった」と書かれているので(『集解』は『帝王世家』の記述を引用しています)、即位した時は十六歳、恵帝元年は十七歳になります。
西漢恵帝元年
丁未 前194年
冬十二月、恵帝が早朝に狩りに行きました。
趙王・劉如意は幼少だったため朝早く起きることができず、恵帝と離れてしまします。
呂太后は恵帝が一人になったと聞き、人を送って酖という毒を飲ませました。
黎明、恵帝が還った時には、趙王は既に死んでいました。
劉如意の諡号は隠王といいます。
呂太后の復讐はまだ続きます。
劉如意の母・戚夫人の手足を斬り、眼(目)をえぐり、耳を薬草で燻って聞こえなくし(煇耳)、瘖薬(声が出なくなる薬)を飲ませ、厠に住ませて「人彘」と名づけました。「彘」は「豚」の意味です。
数日後、呂太后が恵帝を招いて人彘を見に行きました。
恵帝はそれが戚夫人だと知って大哭し、病を患って一年以上も起き上がれなくなりました。
『漢書・外戚伝上(巻九十七上)』は戚夫人を置いた場所を「厠」ではなく「鞠域」としており、東漢の荀悦による『前漢紀・前漢孝恵皇帝紀(卷第五)』では「鞠室」になっています。「鞠域」「鞠室」とも蹴鞠をする場所です。『漢書』顔師古注は「窟室」としているので、地下にあったようです。
清代の『史記志疑』は「厠には住むことができず、恵帝が視に行けるはずもない」ので、「鞠域」「鞠室」が正しいとしています。
恵帝はこの日から酒に溺れて淫楽し、政治を行わなくなりました。ますます健康が害されていきます。
「高祖の業を守って天下の主になりながら、母の残酷な行為に忍びず、国家を棄てて顧ることがなくなり、酒色に溺れて自分の体を損なうということがあっていいはずがない。孝恵皇帝のような者は、小仁に固執して大誼(大義)を理解できなかったと言うべきだ。」
尚、戚夫人への復讐を『史記・呂太后本紀』は夏の事としていますが、『資治通鑑』は趙王・劉如意殺害(正月)の直後に書いています。『漢書』は『恵帝紀』ではなく『外戚伝上(巻九十七上)』に書いており、何月の事かは明記していません。
民が罪を犯しても三十級の爵位に相当する金銭を払えば死罪を免じることにしました。
また、民に爵位を下賜しました。「賜民爵戸一級」とあります。
恵帝五年九月にも「賜民爵戸一級」という記述があり、顔師古は「戸一級」を「家長が(爵一級を)受けた」と注釈しています。
春正月、長安西北に城壁を築きました。
子の哀王・呉回が跡を継ぎました。
次回に続きます。