西漢時代23 恵帝(三) 和親政策 前192~191年
今回は西漢恵帝三年と四年です。
西漢恵帝三年
己酉 前192年
『漢書』の注釈は「城壁の一面だけを築いたため、速く終了した」としています。
『史記・呂太后本紀』は「恵帝三年に長安城の建築を開始した。恵帝四年に半分が完成し、五年と六年で全城が完成した」と書いており、『索隠』に「恵帝四年に東面を築き、恵帝五年に北面を築いた」「城は方六十三里におよび、経緯が各十二里あった」「城の形は北斗のようだった」とあります。
当時、勢力を拡大していた匈奴の冒頓単于はしだいに驕慢になり、手紙を書いて漢の高后(呂太后)に届けました。そこにはこう書かれています「孤僨(孤独)の君(冒頓を指します)は沮沢(沼沢)の中で生まれ、平野牛馬の域で育ち、しばしば辺境に至って中国で遊ぶことを願いました。陛下(呂太后)も独立し(夫に先立たれ)、孤僨独居しています(寂しく一人で暮らしています)。両主(匈奴と漢の主。冒頓と呂太后)は楽しむことなく、娯楽とすることもありません。そこで、お互いが所有しているものをお互いが所有していないものと交換することを願います(願以所有,易其所無)。」
高后は手紙を見て激怒しました。すぐに将相大臣を集め(『資治通鑑』は「将相大臣を集めた」としていますが、『漢書・匈奴伝』には「丞相・陳平および樊噲、季布等を集めた」と書かれています。しかしこの時の相国は曹参で、陳平は西漢恵帝六年・前189年に左丞相になるので、『漢書』の誤りです)、匈奴の使者を斬って出征することを議論させます。
樊噲が出兵を支持して言いました「臣は十万の衆を得て匈奴の中を横行することを願います。」
呂后が中郎将(『資治通鑑』胡三省注によると、漢には五官・左・右中郎の三将がおり、秩二千石です。郎中令に属して中郎を指揮しました)・季布に意見を求めると、季布はこう言いました「噲は斬るべきです。以前、匈奴が高帝を平城で包囲した時、漢兵は三十二万もおり、樊噲が上将軍になりましたが、包囲を解けませんでした(『漢書・匈奴伝』は「以前、陳豨が代で反した時、漢兵は三十二万もおり、樊噲が上将軍になりました。その際、匈奴が高帝を平城で包囲しましたが、樊噲は包囲を解けませんでした」と書いていますが、反したのは陳豨ではなく韓王・信です)。天下はその様子を歌にして『平城の下は誠に苦しい。七日も食事がなく、弩を牽くこともできない(平城之下亦誠苦。七日不食不能彀弩)』と歌い、今でも歌吟の声が絶えません。傷夷者(負傷者)もやっと立ち上がったばかりです。しかし樊噲は天下を震動させて十万の衆で(匈奴を)横行すると妄言しています。これは面謾(欺瞞。面前で嘘をつくこと)というものです。そもそも夷狄は禽獣と同じです。彼等から善言を得たとしても喜ぶには足らず、悪言を得たとしても怒る必要はありません。」
高后は「善し」と言って大謁者(謁者の長)・張釋(または「張澤」「張釋卿」「張擇」。宦官です)に返書を届けさせました。その内容はこうです「単于は弊邑(我が国)を忘れることなく、書を賜りました。(婚姻を要求されたので)弊邑は恐懼しています。(私が朝廷から)退いて自ら図るに、(私は)年老いて気が衰え、髪も歯も抜け落ち、歩くのも安定しません。単于は誤った情報を聴いたのでしょう。自らを汚す必要はありません。弊邑には罪がないので、赦しが得られるべきだと思っています。私には御車二乗、馬二駟(八頭)があるので、普段使う車駕としてお贈りします。」
高后が深く謙遜して謝ったため、冒頓も再び使者を送って謝罪し、「中国の礼義を聞いたことがありませんでした。幸いにも陛下の赦しを得ることができました(陛下の赦しを得たことに感謝します)」と伝えて馬を献上しました。
夏五月、閩越君・揺を東海王に立てました。都を東甌に置いたため、東甌王と号されます。
東海王・揺と閩越王(閩粤王)・無諸(西漢高帝五年・前202年参照)はどちらも越王・句践の子孫です。諸侯に従って滅秦の戦に参加し、多くの功を立てました。二人とも当地の民が帰順していたため、王に立てられました。
秋七月、都厩で火災がありました。
『資治通鑑』胡三省注によると、都厩というのは太僕が管理する大きな厩舎です。
南越王・趙佗が臣を称して奉貢しました。
この年、蜀の湔氐(氐族の一部)が反しましたが、朝廷が兵を発して平定しました。
西漢恵帝四年
庚戌 前191年
冬十月壬寅、張氏を皇后に立てました。
春正月、民の中から孝、弟、力田の者を推挙させ、賦役を免除しました。
この時、恵帝は二十歳です。
法令の中で吏民の生活の妨げになる内容を削除しました。秦代に設けられた「挾書律(書籍の携帯・収蔵を禁止する法)」が廃されました。
恵帝は正式な朝見以外でも呂太后を謁見しており、頻繁に長楽宮を往復しました(皇帝は未央宮にいます)。その都度、警蹕(皇帝が通るために道を清めて通行を禁止し、皇帝を警護すること)が必要なため、民を煩わせることになります。
そこで恵帝は武庫の南に複道を築きました。武庫は長楽宮と未央宮の間に位置します。
奉常・叔孫通が諫めて言いました「そこは毎月、高帝の衣冠を出游させる道です。子孫がどうして宗廟の道の上を歩くことが許されるのでしょうか。」
当時は毎月初一日に高帝の陵寝(陵墓)から衣冠を出して高祖廟まで運ぶことになっていました。恵帝は「遊衣冠」で通る道の上に複道を造ってしまいました。
恵帝は恐れて「すぐに壊せ」と命じました。
しかし叔孫通はこう言いました「人主には過挙(誤った行動)がないものです。(複道は)既に完成しており、百姓も皆知っています。陛下は原廟(正廟以外の廟)を渭北に造り、そこで毎月衣冠を出遊させる儀式を行ってください。宗廟を拡大することにもなるので、大孝の本にできます。」
恵帝は有司(官員)に詔を発して原廟を建てさせました。
「過ちとは人なら避けられないものである。しかし聖賢の者だけは過ちを知って改められるのだ。古の聖王は、自分に過ちがあるのに気がつかないことを憂い、誹謗の木(批判を書くための標札)を設けて敢諫の鼓(諫言する時に敲く太鼓)を置いた。(古の聖王で)百姓に過ちを聞かれるのを畏れた者がいただろうか。だから仲虺は成湯を称賛して「過ちを改めて惜しまない(改過不吝)」と言い、傅設は高宗を戒めて「過失を恥て非を行ってはならない(過ちを人に知られることを恥じてそのままにしてはならない。原文「無恥過作非」)」と言った。これらのことを観ると、人君となる者は過ちがないことを賢とするのではなく、過ちを改めることを美とするのである。
今回、叔孫通は孝恵皇帝を諫めて『人主は過挙がない』と言ったが、これでは人君に過失を粉飾して非(罪)を犯させることになるので、大きな間違いである。」
長楽宮の鴻台で火災がありました。
『資治通鑑』胡三省注によると、鴻台は秦始皇帝二十七年(前220年)に造られました。台の高さは四十丈あり、上には楼閣が建てられています。帝(恐らく始皇帝)が台の上で飛鴻を射たことがあったため、鴻台とよばれました。
宜陽で血の雨が降りました。
秋七月乙亥(二十日)、未央宮の凌室(藏冰の部屋)で火災がありました。
丙子(二十一日)には織室(絹を織る部屋)で火災がありました。
次回に続きます。