西漢時代24 恵帝(四) 恵帝の死 前190~188年
今回で西漢恵帝の時代が終わります。
西漢恵帝五年
辛亥 前190年
冬、雷が落ちました。
また、冬なのに桃李の花が開き、棗の実が成りました。
夏、大旱に襲われ、江河の水が減って渓谷の水が絶えました。
九月、長安城が完成しました。
西漢恵帝六年
壬子 前189年
冬十月、王陵を右丞相に、陳平を左丞相に任命しました。
恵帝が令を下して民が爵位を買うことを許しました。
また、十五歳以上三十歳以下の女子で嫁いでいない者には罰として五算を納めさせました。
一算は百二十銭なので五算は六百銭になります。
周勃を太尉に任命しました。
六月、舞陽侯・樊噲が死にました。
西漢恵帝七年
癸丑 前188年
冬十月、車騎(車兵と騎兵)・材官(歩兵。または地方の予備兵)を動員して滎陽に向かわせました。
太尉・灌嬰が指揮しました。
春正月辛丑朔、日食がありました。
秋八月戊寅(十二日)、恵帝が未央宮で死にました。享年は二十三歳です。
天下に大赦しました。
九月辛丑(初五日)、恵帝を安陵に埋葬しました。
呂太后は恵帝に魯元公主の娘を娶らせて皇后に立てましたが、子ができませんでした。そこで、呂太后は恵帝が死ぬ前に張皇后に命じて別の女性が産んだ子を養わせました。張皇后は妊娠したふりをして後宮の美人が産んだ子を自分の子とし、実母を殺して養子を太子に立てました。
恵帝の埋葬が終わると、太子が皇帝の位に即き、高廟(高祖廟)を拝謁しました。
恵帝の喪が発表された時、呂太后は哭しても涙が出ませんでした。
留侯・張良の子・張辟彊はこの時十五歳でしたが、侍中として宮中におり、丞相にこう言いました「太后には孝恵しかいませんでしたが、今崩御したのに、哭しても悲しんでいません(泣いていません)。あなたはそれがなぜか分かりますか?」
丞相が問いました「どうしてだ(何解)?」
張辟彊が言いました「帝には壮子(壮年の子)がなく、太后はあなた方を畏れています。そこで、呂台、呂産、呂禄を将にして南北軍の兵を指揮させるように請い、諸呂(呂氏一族)が全て入宮して朝廷内で政治を行うようになれば、太后の心が安らぎ、あなた方も禍から逃れられるでしょう。」
丞相はさっそく張辟彊の計に従いました。
安心して喜んだ呂太后は哭礼に哀痛がこもるようになりました。
ここから呂氏が権勢を掌握します。
天下に大赦して、九月辛丑に恵帝を埋葬しました。