西漢時代25 前少帝(一) 王陵左遷 前187年(1)
今回から西漢少帝の時代です。
西漢前少帝
尚、前少帝の名は通常「劉恭」といわれていますが、『史記』『漢書』『前漢紀(東漢・荀悦)』『資治通鑑』『十八史略』等を見ても記述がないようです。清代の梁玉縄による『史記志疑』も「『史記』『漢書』ともその名を語っていない」と書いています。「劉恭」の出典がわかりません。
呂太后
高皇后・呂氏は恵帝を生みました。高祖を助けて天下を平定し、父兄三人が封侯されました。父・呂公は臨泗侯、兄の呂澤と呂釋之は周呂侯と建成侯です。
恵帝死後、太子が即位して皇帝になりましたが、幼かったため呂太后が朝廷に臨んで政治を行いました。
『漢書・高后紀』と『漢書・外戚伝上(巻九十七上)』は「呂太后は兄の子・呂台(呂王。呂澤の子)、呂産(梁王。呂台の弟)、呂禄(趙王。呂釋之の子)、呂通(燕王。呂台の子)の四人を王に立て、諸呂(呂氏一族)の六人を列侯にした」と書いています。
呂氏で封侯された者には、扶栁侯・呂平(呂太后の姉の子)、沛侯・呂種(呂釋之の子)、臨光侯・呂𡡓(呂太后の妹)、俞侯・呂他(または「呂它」)、呂成侯(または「呂城侯」)・呂忿(呂太后の兄弟の子)、贅其侯・呂勝(呂太后の兄弟の子)、滕侯・呂更始(『史記・索隠』によると呂氏の族。)、祝茲侯・呂瑩(または「呂榮」。呂太后の兄弟の子)、東平侯・呂荘(燕王・呂通の弟)がいます(『史記・恵景間侯者年表』『漢書・外戚恩沢侯表』参照)。
「列侯六人」が誰を指すのかはわかりません。
甲寅 前187年
呂太后が右丞相・王陵に意見を求めると、王陵はこう言いました「高帝は白馬を犠牲にして群臣と誓い(刑白馬盟)、『劉氏ではないのに王になる者がいたら、天下が共にこれを撃つ(非劉氏而王,天下共撃之)』と言いました。呂氏を王に立てるのは、盟約に背くことになります。」
高帝の誓いの言葉は西漢景帝中三年(前147年)の景帝と周亜夫の会話にも出てきます。そこでは周亜夫が「劉氏でなければ王になってはならず、功績がなければ封侯されてはならない。もし約束を違えたら天下が共にこれを撃つ(非劉氏不得王,非有功不得侯。不如約,天下共撃之)」と言っています(『史記・絳侯周勃世家(巻五十七)』『漢書・張陳王周伝(巻四十)』)。
王陵に反対されて呂太后は機嫌を悪くしました。
そこで左丞相・陳平と太尉・周勃に問いました。すると二人はこう答えました「高帝は天下を定めて子弟を王にしました。今は太后が称制(政治を行うこと)しているので、昆弟(兄弟)や諸呂の封王を不可とすることはありません(呂氏を王にしても問題ありません)。」
呂太后は二人の発言に満足して喜びました。
朝議が終わって群臣が退くと、王陵が陳平と周勃を責めて言いました「かつて高帝と血を啜って盟を結んだ時、諸君はいなかったのか。今、高帝が崩じて太后が女主となり、呂氏を王にしようとしている。諸君は太后の欲をほしいままにさせて、意におもねって盟約に背いたが、何の面目があって地下で高帝に会えるのだ。」
陳平と周勃が言いました「今、朝廷において正面から諫争するということにおいては、臣は君に及ばない。しかし社稷を全うして劉氏の後代を安定させるということにおいては、君は臣に及ばない。」
王陵は何も言えませんでした。
十一月甲子(中華書局の『白話資治通鑑』によると「甲子」は恐らく誤りです)、呂太后が王陵を右丞相から太傅に遷しました。太傅は皇帝の教育を担当する高官ですが、実際は相国としての実権を奪うことが目的でした。
王陵は病と称して職を辞し、家に帰ります。
『史記・陳丞相世家(巻五十六)』は、「(実権を奪われた)王陵は怒って病と称し、職を去った。その後、門を閉じて朝請(諸侯が皇帝に朝見すること。春の朝見を「朝」、秋の朝見を「請」といいます)も行わなくなり、七年後に死んだ」としています。
『漢書・高恵高后文功臣表』は王陵が西漢高帝六年(前201年)に封侯されて二十一年後(前181年)に死んだとしているので、『史記・陳丞相世家』の「七年」が正しく、『漢書・張陳王周伝』は「七」を「十」に書き間違えたようです。
王陵が右丞相の職を解かれたため、左丞相・陳平が右丞相になりました。当時は右が左の上になります。
辟陽侯・審食其が左丞相に任命されました。しかし審食其は丞相としての職務を行わず、宮中の監督を担当して郎中令のような立場になりました。
任敖が抜擢されたのは、かつて沛の獄吏だった時、呂太后に恩を施したことがあったためです。
任敖は沛人で、若い頃、獄吏を勤めました。高祖がかつて官吏から逃れた時(秦代です)、官吏は呂后を逮捕しました。官吏が呂后に対して無礼をはたらいたため(遇之不謹)、以前から高祖と仲が良かった任敖は怒って呂后を監視している官吏を殴り、怪我をさせました。
高祖が挙兵すると、任敖は客として従い、御史になりました。豊を二年にわたって守ります。
高祖が漢王に立って東の項羽を討伐した時、高祖は任敖を上党守に遷しました。
陳豨が謀反した時も任敖は上党を堅守したため、広阿侯に封じらて食邑千八百戸を与えられました。
広阿侯は任敖の子が継承し、曾孫の任越人の代まで続きましたが、罪を犯して国が廃されました。
呂太后は父の臨泗侯・呂公を追尊(死者に尊号を加えること)して宣王とし、兄の周呂令武侯(周呂侯。令武は諡号)・呂澤を悼武王にしました。既に死んだ父と兄を尊重して王号を与えたのは、生きている呂氏一族を封王するための準備です。
次回に続きます。