西漢時代27 前少帝(三) 漢初の功臣 前186~185年

今回は西漢少帝二年と三年です。
 
西漢少帝二年(前少帝二年高皇后二年)
乙卯 前186
 
[] 『史記太后本紀』『資治通鑑』からです。
冬十一月、呂王呂台が死にました。諡号は粛王です。
呂台の太子呂嘉が跡を継いで王になりました。
 
[] 『漢書高后紀』からです。
春、詔を発しました「高皇帝が天下を匡飭(正して整えること。ここでは統一の意味)し、功がある者は皆、地を分けられて列侯となった。万民は大安となり、休徳(美徳)を受けていない者はいない。朕(呂太后は久遠の後に功名が埋没してしまい、大誼大義を尊んで後世に伝えることができなくなるのではないかと思念している。よって、今から列侯の功によって序列を定め、朝位(朝廷での地位)を決めて高廟に保管しようと思う。世世(代々)途絶えさせることなく、嗣子はそれぞれその功位を踏襲することにする。(丞相は)列侯と議定して奏上せよ。」
丞相陳平が言いました「謹んで絳侯臣・勃(周勃)、曲周侯臣・商(酈商)、潁陰侯臣・嬰(夏侯嬰)、安国侯臣・陵(王陵)等が共に協議しました。列侯は幸いにも餐銭(俸禄)奉邑を下賜されておりますが、陛下は更に恩恵を加えて功績の序列によって朝位を定められました。臣等はこれを高廟に保管することを請います。」
太后は陳平の上奏に同意しました(奏可)
具体的な序列は『漢書高恵高后文功臣表』に「位次」として書かれています。例えば位次一は蕭何、二は曹参、三は張敖、四は周勃、五は樊噲、六は酈商、七は奚涓、八は夏侯嬰、九は灌嬰、十は傅寛等です。百人以上いるので省略します。
尚、位次三の張敖に関しては顔師古が「呂后との関係によって曲升した」と書いています。「曲升」とは事実を曲げて上にすることです。
 
[] 『漢書高后紀』と『資治通鑑』からです。
春正月乙卯(二十七日)地震がありました。
羌道や武都道の山が崩れます。
資治通鑑』胡三省注によると、羌道は県で隴西郡に属します。武都も当時は県ですが、武帝時代に武都郡になりました(県の上に郡があります)。蛮夷が雑居している県は「道」といいます。
 
[] 『資治通鑑』からです。
夏五月丙申(初九日)、呂太后が楚元王劉交(高帝の弟)の子劉郢客を上邳侯に、斉悼恵王劉肥(高帝の子)の子劉章を朱虚侯に封じました(『史記太后本紀』は劉章の封侯を前年に書いています)
二人には入宮を命じて宿衛を担当させました。
また、呂禄の娘を劉章に嫁がせました。
 
[五] 『漢書高后紀』と『資治通鑑』からです。
六月丙戌晦、日食がありました。
 
[六] 『史記太后本紀』『漢書高后紀』と『資治通鑑』からです。
秋七月、恒山王(常山王)劉不疑が死にました。諡号は哀王です。
 
[七] 『漢書高后紀』と『資治通鑑』からです。
八銖銭を発行しました。
銖は重さの単位で、二十四銖で一両になります。八銖銭は秦代から鋳造されていた貨幣で、「半両」と刻まれています。本来の半両は十二銖ですが、八銖銭は八銖で統一されました。
しかし八銖では重くて不便だったため、高后六年(前182年)に軽量化した五分銭(「楡莢銭」「莢銭」)が発行されます。五分は半両(十二銖)の五分の一という意味です。
資治通鑑』胡三省注によると、五分銭では軽すぎたため、再び八銖銭が鋳造されるようになりました。
また、呂太后が八銖銭や五分銭(莢銭)を造る前に、高帝が重さ一銖の莢銭を発行しています。これを楡莢半両銭といいます(高帝の一銖銭も呂太后八銖銭と五分銭も重さは違いますが全て半両銭です)
 
[八] 『史記太后本紀』と『資治通鑑』からです。
癸丑(二十七日)、劉不疑の弟にあたる襄城侯(『資治通鑑』は「襄成侯」と書いていますが、前年では「襄城侯」としています。『史記』や『漢書・表』でも「襄城侯」です)劉山が恒山王に立てられ、劉義に改名しました。二年後、帝位に即いて劉弘に改名します。
 
 
 
西漢少帝三年(前少帝三年高皇后三年)
丙辰 前185
 
[] この年を『史記太后本紀』は「無事(何事もなし)」としています。
 
[] 『漢書高后紀』と『資治通鑑』からです。
夏、江水(長江)漢水が溢れて四千余家が流されました。
 
[] 『漢書高后紀』と『資治通鑑』からです。
秋、昼に星が現れました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
伊水と洛水が溢れて千六百余家が流されました。
また、汝水が溢れて八百余家が流されました。
 
これは『漢書高后紀』には記述がありません。
漢書五行志(巻二十七上)」には太后四年(翌年)秋に「河南で大水があり、伊水と雒水が千六百余家を流した。汝水も八百余家を流した」とあります。恐らく『資治通鑑』の誤りです。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代28 前少帝(四) 前少帝の死 前184年