西漢時代28 前少帝(四) 前少帝の死 前184年

今回は西漢少帝四年です。
 
西漢少帝四年(前少帝四年高皇后四年)
丁巳 前184
 
[] 『資治通鑑』からです。
春二月癸未(初七日)、孝恵皇帝の子と称す劉太を昌平侯に封じました。
 
[] 『史記太后本紀』と『資治通鑑』からです。
夏四月丙申(二十一日)、呂太后が妹𡡓を臨光侯(または「林光侯」)に封じました。
 
史記太后本紀』は𡡓以外の封侯も書いています。『恵景間侯者年表』と併せて紹介します。
呂他(または「呂它」)侯に封じました。呂他の父を呂嬰といい、高祖に従って功を立てました。
呂忿を呂城侯に封じました。『漢書外戚恩沢表』では「呂成侯」になっています。呂忿は呂太后の兄弟の子です。
『呂太后本紀』によると、呂更始を贅其侯に封じました。しかし『史記恵景間侯者年表』『漢書外戚恩沢侯表』とも、呂勝が贅其侯になっており、呂更始は滕侯です。『呂太后本紀』の「呂更始」は「呂勝」の誤りのようです(呂更始は下述します)
尚、呂勝は呂太后の兄弟の子で、呂更始は呂氏の族人です。
 
これ以外に諸侯の丞相五人を封侯しました。『史記恵景間侯者年表』によると、呂相朱通が中邑侯に、梁相王恬開が山都侯に、常山丞相徐厲が松茲侯に、楚相呂更始が滕侯に(上述)、長沙相(姓氏不明)が醴陵侯に封じられています。
 
[] 『史記太后本紀』漢書高后紀』『資治通鑑』からです。
前少帝が成長して自分が皇后の子ではないと知るようになりました。
皇后は魯元公主の娘で恵帝に嫁いだ張皇后を指します。張皇后は子ができなかったため、妊娠したふりをして後宮の美人の子を養子としました。実母は殺されました。
資治通鑑』胡三省注は「少帝および劉不疑(恒山哀王)、劉義(劉不義の弟。恒山王。後少帝)、劉朝(軹侯)、劉彊(淮陽王)の全てが同じである」と書いていますが、劉義、劉朝、劉彊、劉不疑まで張皇后の子と偽ったかどうかはわかりません。張皇后の子とされたのは前少帝だけではないかと思われます。
また、『史記正義』は「諸美人は元々呂氏に寵愛されており、妊娠してから入宮して子を生んだ」としています。
 
前少帝は自分の出生に不満を持ち、「后張皇后は私の母を殺して私を実子と偽ったが、どうしてそのような事ができるのだ。私はまだ幼いが、成長したら変事を為してみせよう」と言うようになりました。
それを聞いた呂太后は前少帝を後宮の永巷に幽閉し、「帝が病になった」と宣言して誰も謁見できなくしました。
 
太后が群臣に言いました「天下を有して万民を治める者は、天のように全てを覆い、地のように全てを包容するものです。上(皇帝)は懽心(歓心。驩心)をもって百姓を安んじさせ、百姓は欣然として(喜んで)上に仕え、懽欣(歓心と欣然)が交わり通じて天下が治まるのです。今、皇帝の病は久しく治らず、失惑昏乱しているため(正気を失っているため)、継嗣して(帝位を継いで)宗廟祭祀を奉じることができず、天下を委ねるべきではありません。代わりを立てることを議しなさい。」
群臣は皆頓首してこう言いました「皇太后は天下斉民(平民)のために計を立てており、それによって宗廟と社稷を安んじること甚だ深いので、群臣は頓首して詔を奉じます。」
こうして前少帝は廃されて幽殺されました。
 
五月丙辰(十一日)、恒山王劉義が帝に立てられました。劉弘に改名します。
但し、今まで通り呂太后が天下を治めたため、改元はしませんでした。
 
軹侯劉朝が劉義(劉弘)に代わって恒山王に立てられました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
この年、平陽侯曹窋(曹参の子)御史大夫になりました。
 
[] 『史記太后本紀』は「太尉の官を置いて絳侯周勃を太尉にした」と書いていますが、『史記絳侯周勃世家(巻五十七)』『漢書張陳王周伝(巻四十)』および『資治通鑑』は西漢恵帝六年(前189年)の事としています。
 
 
 
次回に続きます。