西漢時代31 後少帝(三) 劉澤と田生 前181年(2)

今回は西漢少帝七年の続きです。
 
[八] 『史記太后本紀』と資治通鑑』からです。
𡡓(呂太后の妹。樊噲の妻。林光侯)の娘は将軍(『資治通鑑』は「将軍」。『呂太后本紀』は「大将軍」)営陵侯劉澤の妻でした。
劉澤は高祖の従祖兄弟(共通の曾祖父をもつ親族)です。
斉人田生が劉澤のために大謁者張卿(張釋)に言いました「諸呂が王になりましたが、諸大臣が完全に心服したわけではありません。今、営陵侯澤は諸劉(劉氏一族)の中で最年長です。卿が太后に進言して王にすれば、呂氏の王の地位もますます固めることができるでしょう。」
張卿は入宮して呂太后に話しました。
太后は納得して斉の琅邪郡を劉澤に与え、琅邪王に封じました。劉澤は後に燕王になります。
 
史記太后本紀』は「呂太后は諸呂を王に立てたため、自分の死後、劉将軍が害となることを恐れ、劉澤を琅邪王に立てて心を慰めた(叛心を抑えさせた)」と書いています。
 
史記荊燕世家(巻五十一)』に劉澤と田生のことが書かれており、『漢書荊燕呉伝(巻三十五)』にもほぼ同じ内容があります。以下、『史記』からです。
劉澤は劉氏の遠属に当たります。高帝三年(前204年)に劉澤は郎中になりました。
高帝十一年(前196年)、劉澤は将軍として陳豨を撃ち、王黄を得たため、営陵侯に封じられました。
太后の時代、斉人の田生(『漢書』顔師古注では「田子春」)が周遊していましたが、資金が欠乏したため、計策を練ることで劉澤の歓心を得ました。
この部分の原文は「以画干営陵侯澤」です。『集解』は「画」を「計画計策」とする説と「工画(絵画)」とする説を紹介しており、『索隠』は「どちらでも意味が通じる」としています。後者は「絵画によって寵を得た」となります。『漢書』顔師古注は「計策」が正しいとしています。
 
劉澤は大いに喜んで金二百斤で田生の寿を祝いました(田生に金を与えました)
田生は金を得るとすぐ斉に帰ります。
翌年、劉澤が人を送って田生に問いました「私と交友するつもりがないのか(弗與矣)。」
間もなくして田生が長安に入りましたが、劉澤には会わず、大宅を借りてから自分の子を張子卿(張卿。張澤)に仕えさせました。張卿は呂太后に寵愛されている大謁者です。
数か月後、田生の子が張卿を家に招き、親(田生)が酒宴の準備をしました。張卿は招きに応じます。
田生は帷帳を張って盛大な酒席を設けました。その様子が列侯に匹敵するほどだったため、張卿はとても驚きます。
酒がまわった頃、田生が人払いをして張卿に言いました「臣は諸侯王の邸第(邸宅)百余を見てきましたが、全て高祖と同じ時代の功臣のものです。呂氏は今まで高帝を推轂(推して前に進めること)して天下を取らせました。その功績は至大で、しかも太后の親戚という重みもあります。太后の春秋は既に長く太后は既に老齢で)、諸呂は弱小なので、太后は呂産を呂王に立てて代を治めさせたいと思っています。しかし太后がこれを実行するのは困難です。大臣が従わない恐れがあるからです。今、卿は(呂太后から)最も寵愛されており、大臣からも尊敬されています。なぜ秘かに大臣を諭して太后に進言させないのですか。そうすれば太后は必ず喜びます。諸呂が王になったら卿(あなは)は万戸侯でも得ることができます(翌年、張澤は建陵侯に封じられます)太后が心で欲しているのに、卿が内臣でありながらすぐに行動しなかったら、恐らく禍が身に及ぶでしょう。」
納得した張卿は呂太后の心意を婉曲に大臣達に語り、呂産の封王を進言するように諭しました。
果たして、呂太后が朝廷に臨んで大臣達に意見を求めると、大臣達は呂産を呂王に立てるように請いました。
太后は張卿に金千斤を下賜します。
 
張卿は金の半分を田生に譲ろうとしましたが、田生は受け取らずこう言いました「呂産が王になりましたが、諸大臣が完全に服したわけではありません。今、営陵侯澤は諸劉(劉氏)に属し、大将軍にもなりましたが、満足していません(觖望)。卿が太后に進言し、十余県を割いて王にすれば、彼は王位を得て喜んで去るでしょう。諸呂の王位をますます固められます。」
張卿は入宮して呂太后に話しました。呂太后は納得して営陵侯劉澤を琅邪王に封じます。
 
琅邪王劉澤は田生と一緒に封国に行くことにしました。
田生は劉澤に急いで出発するよう勧めます。
劉澤が関を出た時、呂太后が使者を送って引き留めようとしましたが、劉澤が既に去っていたため使者はあきらめて還りました。
 
以上が『史記荊燕世家』の内容です。
資治通鑑』胡三省注はこう書いています(元は『資治通鑑考異』)
「『史記世家』と『漢書列伝』は田生が張卿を使って呂産を呂王に立てるように大臣を諭し、その後、劉澤を王に立てさせたとしている。しかし太后は呂王嘉が驕恣だったために廃して呂産を呂王に代えた西漢少帝六年182年)。今になって始めて呂に封じたのではない。また、諸呂が王になって久しいのに、なぜ田生の謀が必要なのだ。よってこの話は『資治通鑑』では採用しない。」
 
 
 
次回に続きます。