西漢時代32 後少帝(四) 朱虚侯劉章 前181年(3)
今回で西漢少帝七年が終わります。
趙王・劉恢(共王。高帝の子)は梁から趙に遷されたことが不満で、心中楽しめませんでした。
呂太后は呂産の娘を趙王の后にしていました。王后の従官は全て呂氏の出身で、趙国で専横しています。しかも趙王の言動を秘かに監視していたため、趙王は自由に行動できませんでした。
趙王は一人の姫妾を寵愛していましたが、王后が酖毒を与えて殺してしまいました。
悲しんだ趙王は四章の歌詩を作って楽人に歌わせました。
六月、趙王が悲憤に勝てず自殺してしまいました。
当時、呂氏が専横して政治を行っていました。
朱虚侯・劉章(斉悼恵王・劉肥の子。高帝の孫)は二十歳で気力が満ちており、劉氏が政権を失っている現状に憤っていました。
すると劉章はこう請いました「臣は将種(将門の生まれ)です。軍法によって酒宴を進行することをお許しください(請得以軍法行酒)。」
酒がまわって酔い始めた頃、劉章が呂太后に酒を勧めて歌舞を披露しました。
暫くして劉章が言いました「太后のために『耕田歌』を歌わせてください。」
しかし劉章が「臣は知っています」と答えたため、呂太后は「試しに田について歌ってみよ」と言いました。
劉章が歌いました「深耕穊種,立苗欲疏。非其種者,鋤而去之。」
第一句の「深耕穊種」は「深く耕して種が増えた」、または「種を増やそう」、第二句の「立苗欲疏」は苗を立てるに距離をおこう」、「遠くまで種を撒こう」という意味で、劉氏の繁栄を暗示しています。
第三句と第四句の「非其種者,鋤而去之」は「種が異なる者は鋤で除き去ろう」という意味で、呂氏排斥を暗示しています。
呂太后は黙ったままでした。
暫くして呂氏の一人が酔って酒席から逃げました(亡酒)。
それを見つけた劉章は後を追うと剣を抜いて斬り殺し、戻ってこう報告しました「亡酒した者が一人いたので、臣が謹しんで法を行い処刑しました。」
呂太后の左右の者は皆大いに驚きましたが、既に軍法を用いることに同意していたため、罪にはできません。酒宴はこれで終了します。
この後、呂氏の者達は朱虚侯を畏れ始め、大臣でも朱虚侯に頼るようになりました。劉氏が徐々に増強します。
右丞相・陳平も呂氏の専横を憂いていましたが、制圧する力がなく、禍が自分に及ぶことを恐れていたため、静居にこもって方法を考えていました(燕居深念)。
ある日、陸賈が陳平を訪ねました。門人を通さず直接中に入って座ります。
深く考え事をしていた陳平はそれに気がつきませんでした。
陸生(陸賈)が言いました「なんと思考が深いことでしょう(何念之深也)。」
陳平が問いました「生(先生)は私が何を考えていたか分かりますか?」
陸生が言いました「足下は富貴を極めており、欲もありません。それでも憂念(憂慮)があるということは、諸呂と少主について悩んでいるに違いありません。」
陳平が言いました「その通りです(然)。しかしどうしたらいいでしょう。」
陸生が言いました「天下が安定している時は相が注目されます。天下が危うくなったら将が注目されます(天下安,注意相。天下危,注意将)。将相が和調(調和)すれば士が帰順し、天下に変事があっても権力が分散することはありません。社稷のための計は両君(文武の長。『資治通鑑』は「両軍」としていますが、「両君」の誤りです。『史記』『漢書』の列伝では「両君」です)に掌握されています。臣は太尉・絳侯(周勃)にもこの話をしようと思っていましたが、絳侯はしばしば私に冗談を言っており、私の言を軽く見ています。あなたはなぜ太尉と交驩(親しく交わること)して深く結ぼうとしないのですか。」
陸賈は陳平のために呂氏に関する問題を書きまとめました。
陳平は陸賈の計に納得し、五百金を準備して周勃の寿を祝うことにしました。盛大な宴に周勃を招いて親交を深めます。
周勃も答礼として宴を開きました。
二人は深い関係を結ぶようになり、これによって呂氏の謀略が衰え始めました。
陳平は奴婢百人、車馬五十乗、銭五百万を飲食費として陸生に送りました。
しかし代王は代の辺境を守ることを願って趙への国替えを辞退します。
呂太后はこれに同意して呂禄を趙王に封じました。
九月、燕王・劉建(霊王。高帝の子)が死にました。
南越が長沙を侵略しました。
漢朝廷は隆慮侯・周竈に兵を率いて南越を攻撃させました。
次回に続きます。