西漢時代33 後少帝(五) 呂太后の死 前180年(1)
今回は西漢少帝八年です。五回に分けます。
辛酉 前180年
しかし「撠」には「撃つ」「刺す」という意味もあるので、「蒼犬が太后の腋を襲った」と解釈することもできます。中華書局の『白話資治通鑑』は「猛扑太后腋窩」と訳しており、「呂太后の腋の下にぶつかってきた」という意味になります。
呂太后は腋に病を患います。
呂太后は外孫の魯王・張偃(張敖と魯元公主の子)が年少孤弱であることを憐れみました(『史記・呂太后本紀』は張敖が死んだ時(前年および前々年参照)に張敖を「魯元王」にしたと書いていますが、ここでは張偃を「魯元王」としています。『資治通鑑』では「魯王・張偃」です)。
夏四月丁酉(十五日)、張敖の姫妾が産んだ二子のうち、張侈を新都侯に、張寿を楽昌侯に封じました。二人に魯王・張偃を助けさせます。
新都侯・張侈、楽昌侯・張寿、建陵侯・張釋とも呂氏の権勢を固めるための封侯でした。
『史記』の「諸中宦者令丞」は「全ての中宦(宦官)の令丞(宦官で諸官署の令丞を勤めている者)」という意味だと思いますが、「者」が余計です。あるいは「中宦者」で「宦官」または「宮中の宦者」という意味かもしれません。いずれにしても対象は「諸官署で令丞を勤めている宦官」になります。
『漢書』は「諸中」の後ろに「官」をつけて「諸中官」と「宦者令丞」としています。「中官」とは「宮中に仕える宦官」の意味です。「諸中官、宦者令丞」と読んだ場合、「宮中の全ての宦官と宦者署の令丞(宦者令と宦者丞。宦官を管理する令丞)」となり封侯の対照が広すぎるように思えます。
秋七月、呂太后の病がひどくなりました。
そこで、趙王・呂禄を上将軍にして北軍を指揮させ、呂王・呂産に南軍を指揮させました(西漢恵帝七年・前188年にも呂台、呂産、呂禄を将にして南北軍の兵を指揮させたという記述がありました。実際は、南北軍は呂氏が長い間掌握していたはずです)。
呂太后が呂産と呂禄を戒めて言いました「高帝は天下を定めてから大臣と約束して『劉氏ではないのに王になった者は、天下が共に撃つ(非劉氏王者,天下共撃之)』と言いました。今、呂氏が王になっていることに大臣は不平です。私はもうすぐ崩じ、帝はまだ年少なので、大臣が変を為す恐れがあります。必ず兵権を掌握して皇宮を守りなさい。決して送喪(葬送)のために人に制されるというようなことになってはなりません。」
『漢書・百官公卿表下』では前年の七月辛巳に審食其が太傅になっています。
次回に続きます。