西漢時代33 後少帝(五) 呂太后の死 前180年(1)

今回は西漢少帝八年です。五回に分けます。
 
西漢少帝八年(後少帝四年高皇后八年)
辛酉 前180
 
[] 『史記・呂太后本紀』『資治通鑑』からです。
冬十月辛丑(中華書局の『白話資治通鑑』は「辛丑」を恐らく誤りとしています)、東平侯呂通(呂粛王呂台の子)を燕王に立てて、呂通の弟呂荘を東平侯に封じました。
 
史記・恵景間侯者年表』では、燕王になった呂通の元の封地は東平ではなく錘(錘侯)となっています。また、呂荘が東平侯に封じられるのは、五月丙辰の事です。
 
[] 『史記太后本紀』と『資治通鑑』からです。
春三月、呂太后が祓(御祓いの儀式)を行いました。『漢書五行志(巻二十七中之上)』によると場所は覇上です。
太后は還る途中で軹道を通りました。すると蒼犬(蒼は深い青、または灰色)のような物が現れました。
史記太后本紀』はこの後を「據高后掖,忽弗復見」としています。「(蒼犬のような物が)高后の腋の下に居座ってから、突然姿を消した」と読めます。
資治通鑑』では「太后掖」となっており、『漢書五行志(巻二十七中之上)』が元になっています。『漢書高后紀』には蒼犬に関する記述がありません。
漢書』の顔師古注は「」を「拘持」と解釈しています。「拘持」は「挟む」という意味なので、『史記』と同じく呂太后の腋に挟まれたように見えたようです。
しかし「」には「撃つ」「刺す」という意味もあるので、「蒼犬が太后の腋を襲った」と解釈することもできます。中華書局の『白話資治通鑑』は「猛扑太后腋窩」と訳しており、「呂太后の腋の下にぶつかってきた」という意味になります。
 
史記太后本紀』と『資治通鑑』に戻ります。
太后がこの出来事を卜うと、「趙王如意が祟りを為している」と出ました。
太后は腋に病を患います。
 
[] 『史記・呂太后本紀』と『資治通鑑』からです。
太后は外孫の魯王張偃(張敖と魯元公主の子)が年少孤弱であることを憐れみました(『史記太后本紀』は張敖が死んだ時(前年および前々年参照)に張敖を「魯元王」にしたと書いていますが、ここでは張偃を「魯元王」としています。『資治通鑑』では「魯王張偃」です)
 
夏四月丁酉(十五日)、張敖の姫妾が産んだ二子のうち、張侈を新都侯に、張寿を楽昌侯に封じました。二人に魯王張偃を助けさせます。
史記恵景間侯者年表』では、「新都」は「信都」に、「張寿」は「張受」になっています。
 
史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。
中大謁者張釋または「張澤」「張釋卿」。呂太后に寵愛されている宦官)を建陵侯に封じ、諸呂の封王を進言した功績を賞しました。
漢書・高后紀』は春の事としていますが、『漢書外戚恩沢侯表』は夏四月丁酉としているので、『高后紀』の誤りです。
 
新都侯・張侈、楽昌侯・張寿、建陵侯・張釋とも呂氏の権勢を固めるための封侯でした。
 
更に呂榮(または「呂瑩」)を祝茲侯に封じました。呂榮は呂太后の兄弟の子です。
 
[] 『史記・呂太后本紀』と『漢書・高后紀』からです。
宦者の令丞を全て関内(列侯の下の爵位。実際の封地がなくて租税だけを得る爵)に封じ、食邑五百戸と定めました。
関内侯に封じた対象を『史記・呂太后本紀』は「諸中宦者令丞」、『漢書・高后紀』は「諸中官宦者令丞」としています。令は官署の長、丞は補佐です。
史記』の「諸中宦者令丞」は「全ての中宦(宦官)の令丞(宦官で諸官署の令丞を勤めている者)」という意味だと思いますが、「者」が余計です。あるいは「中宦者」で「宦官」または「宮中の宦者」という意味かもしれません。いずれにしても対象は「諸官署で令丞を勤めている宦官」になります。
漢書』は「諸中」の後ろに「官」をつけて「諸中官」と「宦者令丞」としています。「中官」とは「宮中に仕える宦官」の意味です。「諸中官、宦者令丞」と読んだ場合、「宮中の全ての宦官と宦者署の令丞(宦者令と宦者丞。宦官を管理する令丞)」となり封侯の対照が広すぎるように思えます。
 
[] 『漢書・高后紀』と『資治通鑑』からです。
江水(長江)漢水が溢れて一万余家が流されました。
 
[] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。
秋七月、呂太后の病がひどくなりました。
そこで、趙王呂禄を上将軍にして北軍を指揮させ、呂王呂産に南軍を指揮させました西漢恵帝七年・前188年にも呂台、呂産、呂禄を将にして南北軍の兵を指揮させたという記述がありました。実際は、南北軍は呂氏が長い間掌握していたはずです)
 
太后が呂産と呂禄を戒めて言いました「高帝は天下を定めてから大臣と約束して『劉氏ではないのに王になった者は、天下が共に撃つ(非劉氏王者,天下共撃之)』と言いました。今、呂氏が王になっていることに大臣は不平です。私はもうすぐ崩じ、帝はまだ年少なので、大臣が変を為す恐れがあります。必ず兵権を掌握して皇宮を守りなさい。決して送喪(葬送)のために人に制されるというようなことになってはなりません。」
 
辛巳(三十日)、呂太后未央宮で死にました。
遺詔によって諸侯王にそれぞれ千金を与え、全ての将相・列侯から郎吏に及ぶ官員にも秩にあわせて金を下賜しました。また、天下に大赦し、呂王呂産を相国に、呂禄の娘を帝后(皇后)にしました。
以上は主に『史記・呂太后本紀』と『資治通鑑』の記述です。『漢書・高后紀』は呂禄の上将軍と呂産の相国を前年に書いています。
 
史記・呂太后本紀』と『資治通鑑』によると、高后の葬儀が終わってから、左丞相審食其が帝太傅になりました。
史記・漢興以来将相名臣年表』では七月辛巳に審食其が帝太傅になっています。七月辛巳は呂太后が死んだ日なので、葬儀の後ではありません。
漢書・百官公卿表下』では前年の七月辛巳に審食其が太傅になっています。
 
 
 
次回に続きます。