西漢時代34 後少帝(六) 斉王挙兵 前180年(2)

今回は西漢少帝八年の続きです。
 
[] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。
上将軍・呂禄と相国・呂産は軍権と政権を掌握しており、高皇帝との約束を裏切っていることを自覚していたため、大臣や諸侯王に誅殺されるのではないかと恐れ、乱を起こす機会を探していました。しかし大臣の周勃や灌嬰等を恐れてなかなか動けません。
 
当時、斉悼恵王(劉肥。高帝の長子)の子・朱虛侯・劉章と東牟侯・劉興居は長安にいました。どちらも斉王・劉襄(哀王)の弟です。
劉章は呂禄の娘を娶って婦(妻)にしていたため、呂氏の陰謀を知りました。
誅殺を恐れた劉章は秘かに人を送って兄の斉王劉襄に伝え、出兵をうながしました。斉が兵を発したら、朱虚侯劉章と東牟侯劉興居が太尉・周勃、丞相・陳平と共に朝廷で内応し、呂氏を誅滅して斉王を帝に立てるというのが劉章の計画です。
斉王劉襄は舅の駟鈞、郎中令祝午、中尉魏勃と共に秘かに出兵を謀りました。しかし斉相召平が反対します。
 
資治通鑑』胡三省注によると、駟氏は春秋時代鄭国の七穆(穆公の子孫)のひとつである駟氏の子孫です。
祝氏は西周武王が黄帝の後代を祝(地名)に封じて生まれた氏です。
 
漢書百官公卿表(巻十九上)』から諸侯王の官制を簡単に説明します。
高帝が諸侯王を置いた時、諸侯王は金璽綬を持って自国を治めることができました。太傅が王を補佐し、内史が国民を治め、中尉が武職を掌握し、丞相が衆官を率います。群卿大夫の組織は漢(中央)の朝廷と同じで、諸侯王国は半独立状態でした。
しかし景帝の時代になって諸侯王は自分の国を治める権利を失い、天子が諸侯国の官吏を任免するようになりました。丞相は相に改名され、御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士官、大夫、謁者、郎諸官、長丞が削減されます。
武帝は漢(中央)の内史を京兆尹に、中尉を執金吾に、郎中令を光禄勳に改めました。王国の官名は変わりませんでしたが、郎中令は秩が減らされて千石に、太僕は僕に改められて同じく秩千石になりました(中央の光禄勳と太僕の秩は中二千石です)
成帝の時代には内史が省かれ、相による治民は郡の太守と同等に、中尉は郡都尉と同等にするように命じられました。
 
本文に戻ります。
八月丙午(二十六日)、斉王が人を送って相召平を誅殺しようとしました。それを知った召平は逆に兵を発して王宮を包囲します(原文「衛王宮」。この「衛」は「囲」と同義です)
そこで魏勃が偽って召平に言いました「王は兵を発しようとしていますが、漢の虎符による験(証明。根拠)がありません。相君が王を包囲したのは正しいことです。勃(私)があなたのために兵を率いて王を包囲したい(原文「衛王」)と思います。」
 
召平は魏勃の言葉を信じて兵権を与えました。
その結果、魏勃は兵を指揮して相府を包囲します。召平は自殺しました。
斉王は駟鈞を相に、魏勃を将軍に、祝午を内史に任命し、国中の兵を動員しました。
 
漢書高恵高后文功臣表』によると、召平の子召奴は父が殺されたことによって文帝時代に黎侯に封じられます。諡号を頃侯といいます。
 
尚、魏勃が召平に話した「虎符」について、『資治通鑑』胡三省注は「文帝三年(前177年)九月に初めて郡国の守相に銅虎符を与えるので、この頃はまだないはずだ」と注釈しています。
 
斉王劉襄は祝午を東に送り、琅邪王劉澤(高帝の従祖兄弟)に偽ってこう伝えました「呂氏が乱を為したので、斉王が兵を発して西に向かい、呂氏を誅殺しようとしています。しかし斉王はまだ年少で兵革の事(軍事)について知識がないので、国を挙げて大王(劉澤)に委ねることを願っています。大王は高帝の頃からの将です。幸いにも大王が臨菑(斉都)に足を運び、斉王に会って事を計ることを願います。」
琅邪王はこれを信じて急いで西に向かい、斉王と会見しました。
ところが斉王は琅邪王を斉国に留め、その間に祝午を送って琅邪国の兵も全て合わせて指揮下に置きました。
 
史記荊燕世家(巻五十一)』と『漢書荊燕呉伝(巻三十五)』は「呂太后が死ぬと琅邪王劉澤は『帝が幼くて諸呂が政治を行っており、劉氏は孤弱である』と言って呂氏誅滅を欲した。そこで兵を率いて斉王と共に西進を謀った」としており、『史記太后本紀』史記斉悼恵王世家』等と異なります。『史記索隠』は「燕(劉澤は後に燕王になります)と斉の両国の史官がそれぞれの主による立功の形跡を述べたため、太史公司馬遷はそれぞれを書き記した」と解説しています。
 
本文に戻ります。
琅邪王が斉王に言いました「大王(劉襄)は高皇帝の適長孫(「適」は「嫡」と同義です。斉王劉襄は悼恵王劉肥の子で、劉肥は高帝の長子だったので、劉襄は高帝の長孫になります)なので帝位に立つべきです。今、諸大臣は狐疑(狐のように疑うこと)して決断できません。澤(私)は劉氏で最も長年なので、諸大臣は澤(私)が計を決するのを待っているのです。今、大王は臣をここに留めていますが、これでは何の役にも立ちません。私を関に入れて大事を計らせるべきです。」
斉王は納得して琅邪王を入京させることにしました。多数の車を準備して琅邪王を送り出します。
 
後に呂氏が誅滅され、新たに皇帝を立てることになると、琅邪王は斉王の即位に反対して代王・劉恒を迎え入れます(『史記荊燕世家』『史記・斉悼恵王世家』)
 
琅邪王・劉澤が出発してから、斉王・劉襄は兵を挙げて西の済南を攻めました。済南は元々斉国に属していましたが、西漢少帝元年(前187年)に斉から裂かれて呂国に入れられました。
 
斉王は諸侯王に呂氏の罪を告げて共に兵を挙げさせるため、書を送りました「高帝は天下を平定して諸子弟を王に立て、悼恵王に斉を治めさせた。悼恵王が死ぬと、孝恵帝は留侯・良張良を送って臣(私)を斉王に立てた。孝恵が崩じると高后が政治を行うようになったが、高后は春秋が高く(老齢であり)、諸呂の意見を聞いて勝手に帝を廃したり改立した。しかも三趙王(隠王・劉如意、幽王・劉友、共王・劉恢)を連続して殺し、梁、趙、燕を滅ぼして諸呂を王に立て、斉を四つに分割した。忠臣が諫言を進めても上(高后)は惑乱して聞かなかった。今、高后が崩じたが、帝は春秋が富んでいるため(まだ幼いので)、天下を治めることができない。本来なら大臣・諸侯に頼るべきだが、諸呂はまた勝手に自らの官を尊くし、兵を集めて威を厳しくし、列侯・忠臣を強制して矯制(偽の詔)によって天下に号令している。そのため宗廟は危機に陥っている。寡人は兵を率いて入京し、王であるべきではない者を誅殺する。」
 
斉の動きを聞いた相国呂産等は潁陰侯灌嬰に兵を率いて迎撃させました。
しかし灌嬰は滎陽まで来るとこう考えました「諸呂は関中で兵を擁しており、劉氏を危うくして自ら立とうとしている。今、私が斉を破り、朝廷に還って報告したら、呂氏の資(資本。力)を増強させることになる。」
灌嬰は滎陽に駐屯すると斉王に使者を送り、諸侯と連和して呂氏に変化が現れたら共に誅滅するように諭しました。
斉王はそれを聞いて斉の西界まで兵を還し、機会を待つことにしました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代35 後少帝(七) 呂氏誅滅 前180年(3)