西漢時代35 後少帝(七) 呂氏誅滅 前180年(3)

今回も西漢少帝八年の続きです。
 
[] 『史記・呂太后本紀』『漢書・高后紀』『資治通鑑』からです。
趙王呂禄と梁王(呂王。以下同じ)呂産は関中で兵乱を起こそうとしていましたが、朝廷内には周勃や劉章等がおり、外には斉や楚等の宗族諸王が重兵を擁しており、また、軍権をもつ灌嬰が裏切る恐れもあったため、躊躇して決断ができず、灌嬰と斉軍が戦いを始めてから動くことにしました。
当時、済川王劉太、淮陽王劉武、常山王劉朝(三人とも恵帝の子。少帝の弟)と魯王張偃は年少だったため、封国に行かず長安に住んでいました。また、趙王呂禄と梁王呂産はそれぞれ兵を率いて南軍と北軍にいます。これらは全て呂氏に関係する人だったため、列侯群臣は自分の命も保つのが難しい状況に置かれていました(呂氏は大臣群臣や諸侯王および灌嬰を警戒しており、中央の大臣群臣は呂氏の兵権と呂氏に関係する諸王の存在を恐れていました)

絳侯周勃は太尉(軍事の長)なのに軍中に入って兵を指揮することができませんでした。
曲周侯酈商は年老いて病を患っていました。その子酈寄は呂禄と交流があります。
そこで周勃は丞相陳平と謀り、人を送って酈商を捕まえました。酈商を人質にして子の酈寄から呂禄にこう伝えさせます「高帝と呂后が共に天下を定めてから、劉氏は九王を立て(高帝の弟にあたる楚王劉交。高帝の子にあたる代王劉恒と淮南王劉長。高帝の兄の子にあたる呉王劉濞。劉氏の親族にあたる琅邪王劉澤。高帝の孫にあたる斉王劉襄。恵帝の子にあたる常山王劉朝、淮陽王劉武、済川王劉太)、呂氏は三王を立てました(呂台の弟にあたる梁王呂産。呂釋之の子にあたる趙王呂禄。呂台の子にあたる燕王呂通。呂台は呂澤の子で、呂澤と呂釋之は呂太后の兄)。全て大臣の議によるもので、この事は既に諸侯に布告されており、諸侯も当然のことだと思っています。しかし今、太后が崩じて帝が幼いのに、足下は趙王の印を佩しながら急いで国に帰って藩を守ろうとせず、上将として兵を指揮してここに留まっています。これでは大臣や諸侯の疑いを招きます。足下はなぜ将印を返して兵を太尉に属させ、梁王(呂産)に相国の印を返すように求め、大臣と盟を結んで封国に行かないのですか。そうすれば斉兵は必ず解散し、大臣も安心でき、足下も枕を高くして千里の地を治めることができます。これこそ万世の利となります。」
呂禄は酈寄の計を信じて兵権を太尉に返したいと思うようになりました。そこでまずは人を送って呂産や呂氏の老人に伝えます。しかし呂氏の人々は、ある者は賛成し、ある者は反対したため、決断できませんでした。
 
呂禄は酈寄を信じていたため、時々一緒に外出して狩猟をしました。
ある日、呂禄が途中で呂𡡓(呂太后の妹。樊噲の妻)の家を訪ねました。呂𡡓は激怒してこう言いました「汝は将になりながら軍を棄てました(軍権を返そうとしている。または狩猟をして軍から離れている)。呂氏は今後、身を置く場所がなくなるでしょう。」
𡡓は家の中から全ての珠玉宝器を運び出して堂下にばらまき、「他人のためにこれらの物を守る必要はありません(今後、人の手に渡るくらいなら早く捨てたほうがましです)」と言いました。

九月庚申(初十日)の朝、平陽侯曹窋(曹参の子)御史大夫として(行御史大夫事)として相国呂産に会いに行き、国事を計りました。
「九月庚申」としているのは『資治通鑑』で、『史記・呂太后本紀』と『漢書・高后紀』では「八月庚申」です。
 
この時、郎中令賈寿が使者として斉に行っており、ちょうど帰って来ました。
資治通鑑』胡三省注によると、西周康王が唐叔虞の少子公明を賈城に封じたため、その子孫が国名を氏にしました。また、晋の大夫賈季も食邑が賈だったため、子孫が邑名を氏にしました。
 
賈寿が呂産を責めて言いました「王はなぜ早く国に行かないのですか!今から行こうとして間に合うとお思いですか!」
賈寿は灌嬰が斉楚と合従して諸呂を誅滅しようとしていることを呂産に詳しく語り、急いで入宮するように促しました。先に皇帝を手に入れれば灌嬰や斉楚が逆賊になるからです。
それを聞いていた曹窋は走って太尉周勃と丞相陳平に報告しに行きました。
 
曹窋の話を聞いた周勃は、軍権を握って呂氏を討伐するために北軍に入ろうとしましたが、符節がないため拒否されました。符節は襄平侯紀通が管理しています。
史記』の注釈によると紀通は紀成の子で、『資治通鑑』胡三省注は「紀成は紀信の別名ではないか」としています。紀信は劉邦を守って項羽に焼き殺されました(西楚覇王三年・前204年)
 
周勃は紀通に符節を持たせ、帝命を偽って北軍に周勃を受け入れさせました。
 
周勃は軍に入る前に酈寄と典客劉揭に命じて呂禄にこう伝えさせました「帝は太尉(周勃)北軍を守らせ、足下には国に赴いてほしいと思っています。急いで将印を返して辞去してください。そうしなければ禍が起きます。」
典客は秦代から踏襲された官で、諸侯や帰順した異民族を管理します。景帝時代に大行令に改名され、武帝時代に大鴻臚になりました。劉揭が酈寄に同行したのは諸侯を管理する官だったからです。
 
呂禄は酈況(況は酈寄の字)が自分を騙すはずはないと信じていたため、将印を外して劉揭に渡し、北軍の兵権を太尉周勃に授けました。
 
周勃は軍門を入ると軍中に令を出してこう言いました「呂氏のために働く者は右袒せよ!劉氏のために働く者は左袒せよ!」
袒というのは腕を袖から出して上半身を裸にすることです。左袒、右袒は片方の肩から腕を出すことです。
資治通鑑』胡三省注によると、礼に関する事は左袒し、謝罪して刑を待つ時には右袒するという決まりがありました。
 
軍中の者は皆、左袒して劉氏への忠誠を示しました。
周勃が軍中に入った時には、呂禄は既に去っており、上将の印も返していたため、周勃が北軍を完全に掌握しました。
 
南軍はまだ呂産が軍権を握っています。
曹窋は賈寿が呂産に話した事(急いで入宮するという内容)丞相・陳平に話しました。
丞相陳平は朱虚侯劉章を招いて周勃を助けさせます。
 
劉章が来ると、周勃は劉章に軍門を監視させました。また、曹窋から衛尉(宮門守備兵の長)にこう命じさせました「相国産を殿門に入れてはならない!」

呂産は呂禄が北軍を去ったと知らず、未央宮に入って乱を起こそうとしました。
しかし殿門で遮られたため、門前を行ったり来たりします。
曹窋は呂産を制御できなくなることを恐れ(呂産が門衛の守備を破って宮門を突破することを恐れ)、走って周勃に報告しました。
周勃は諸呂勢力に勝てないことを恐れていたため、呂氏誅滅を公言しようとせず、劉章にこう言いました「急いで入宮して帝を守ってください!(呂氏誅滅をはっきり命じたわけではありません)
劉章は周勃に兵を求めました。周勃は千余人を与えます。
 
劉章が兵を率いて未央宮の(正門の両側にある小門)を入ると、呂産が廷中にいました(既に宮門を入っていました)
日餔の時(申時。午後三時から五時)、劉章が呂産を撃ち、呂産は逃走しました。ちょうど天が大風を起こしたため、呂産の従官は混乱に陥り、敢えて戦おうとする者はいません。劉章は呂産を追って郎中府吏の厠の中で殺しました。
資治通鑑』胡三省注によると、郎中令は宮殿門戸を管理する官なので宮中に府がありました。
 
劉章が呂産を殺すと、帝が謁者に符節を授けて劉章を慰労させました。
劉章が謁者から節信符節)を奪おうとしましたが、謁者は拒否します。
そこで、劉章は謁者を同じ車に乗せ、節信を利用して長楽宮に駆けました。長楽衛尉呂更始を殺します。
 
劉章は戻って北軍に入り、周勃に報告しました。周勃は立ち上がって劉章に拝賀し、「患いるべきは呂産だけでした。今誅されたので天下は定まりました」と言いました。
周勃は人を分けて呂氏の男女を全て捕えさせ、老若に関わらず皆殺しにしました。
 
辛酉(十一日)、呂禄を斬って呂𡡓を笞殺(鞭打ちで殺す刑)しました。
また、使者を送って燕王呂通を殺し、魯王張偃を廃しました。

壬戌(十二日)、帝太傅・審食其を左丞相に戻しました。

戊辰(十八日)、済川王劉太を梁王にしました。梁王(呂王)だった呂産の代わりです。
同時に朱虚侯劉章を派遣し、諸呂誅滅を斉王劉襄に伝えて撤兵させました。
 
史記・呂太后本紀』はここで「趙幽王・劉友の子・劉遂を趙王に立てた」と書いていますが、『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』は翌年の事としています。
 
滎陽にいた灌嬰は魏勃が斉王劉襄に挙兵を勧めたと聞き、使者を送って魏勃を招きました。
灌嬰が魏勃を譴責すると魏勃は「失火した家がどうして先に丈人(年長者)に報告してから火を消す余裕があるのでしょう」と言って後ろにさがり、脚を震えさせて起ちました。恐れて他には何も言えません。
灌将軍は魏勃を熟視してから笑って「人は魏勃の勇を称えるが、妄庸の人に過ぎなかった。これで何ができるか」と言い、魏勃を釈放しました。
灌嬰も兵を率いて滎陽から帰還します。
 
漢書』の編者班固は酈寄を評してこう書いています(『樊酈滕灌傅靳周伝(巻四十一)』)
「孝文の時代、天下は酈寄を友を売ったと非難した。友を売るというのは、利を見て義を忘れることだ。しかし酈寄の父は漢の功臣であり、しかも捕まって人質になった。確かに呂禄を破滅させることになったが、社稷を安んじて、誼(義)によって君親(国君と父親)を助けたのだから正しい判断だったといえる。」
 
 
 
次回に続きます。