西漢時代36 後少帝(八) 代王劉恒 前180年(4)

今回も西漢少帝八年の続きです。
 
[] 『史記・呂太后本紀』『孝文本紀』『漢書・高后紀』『文帝紀』『資治通鑑』からです。
諸大臣が秘かに相談して言いました「少帝と梁王、淮陽王、恒山王常山王)はどれも孝恵の本当の子ではない。呂后が計を用いて他人の子に名を偽らせ、実母を殺して後宮で養い、孝恵の子としたのだ。帝の後継者や諸王に立てたのは呂氏を強くするためである。今、皆が諸呂を夷滅(誅滅)したが、(呂氏に)立てられた者達が成長して政治を行うようになったら、我々は無関係ではいられなくなる。諸王の中で最賢の者を選んで立てるべきだ。」
 
前後少帝を含めて恵帝の子は来歴がはっきりしません。『資治通鑑』は「所名孝恵子彊(恵帝の子と名乗っている劉彊)」「所名孝恵子太(恵帝の子と名乗っている劉太)」等としており、恵帝の子であることに懐疑的です。
史記正義』には「諸美人は妊娠してから宮中に入って恵帝の子を生んだ」という説も紹介されています西漢少帝四年184年)
しかし、『史記太后本紀』と『漢書高后紀』は「後宮子彊(恵帝の後宮の子劉彊)」「皇子平昌侯太(皇子の平昌侯劉太)」等としており、恵帝の子であることは否定していません。但し、張皇后には子がなかったと明記しています。
清代の『史記志疑』は「大臣が呂氏の党を滅ぼすために陰謀して、『劉氏ではない』という口実を使った」と書いています。
 
本文に戻ります。
ある者が言いました「斉悼恵王は高帝の長子だ。今はその適子(嫡子。劉襄)が斉王になった。根本を追求するのなら、斉王は高帝の適長孫に当たる。彼を立てるべきだ。」
しかし大臣はそろってこう言いました「呂氏は外家外戚として悪事を行い、宗廟を危うくして功臣を乱すところだった。今、斉王の母家は駟氏で、舅(母の兄弟)の駟鈞は虎が冠をしているように凶悪な人物だ。斉王を立てたら呂氏を復すことになる。」
史記斉悼恵王世家(巻五十二)』では琅邪王(劉澤)と大臣が斉王の即位に反対しています。琅邪王は斉王に騙されて兵を奪われていました。
 
淮南王劉長(高帝の子)を立てようとする者もいましたが、まだ若く、母の家も相応しくありません。
そこで大臣達はこう言いました「代王は今の高帝の諸子において最年長で、仁孝寬厚な人だ。太后の家である薄氏も謹良である。そもそも、年長者を立てるのは元から(道理に)順じたことだ。仁孝が天下に知られているのならなおさらだろう。彼こそふさわしい。」
大臣達は秘かに人を送って代王を招くことにしました。
 
代王は高帝の姫妾薄氏が産みました。劉恒といいます。
資治通鑑』胡三省注によると、薄姓は戦国時代には既に存在しており、衛に賢人薄疑がいました。

招きを受けた代王劉恒が左右の者に意見を聞きました。
郎中令張武等が言いました「漢の大臣は皆かつて高帝の時代に大将だった者達で、兵(軍事)に精通していて謀詐も豊富です。彼等の意志は今の地位に留まることではありません(常に異心を抱いています)。ただ高帝と呂太后の威を恐れていただけです。最近、既に諸呂を誅殺し、京師(首都。京都)を血で染めたばかりです(原文「新啑血京師」。「啑血」は「喋血」とも書き、大量な血を流すという意味です)。今回、大王を迎えるという名分を掲げていますが、実に信用できません。大王は病と称して赴かず、状況の変化を観察するべきです。」
中尉宋昌が進み出て言いました「群臣の議は全て非(誤り)です。秦が政権を失ってから、諸侯豪桀(豪傑)が並立し、自分が(天下を)得られると思っていた者は万を数えます。しかし最後に天子の位を踏んだのは劉氏であり、天下は望(野望)を絶ちました。これが一つ目の理由です。高帝は子弟を王に封じ、諸侯王の地は犬牙のように入り組んで互いに(天下を)制しています。これは磐石の宗というものであり(宗室の力は盤石で)、天下はその強に服しています。これが二つ目の理由です。漢が興ってから、秦の苛政を除き、法令を簡約にし、徳恵を施したので、人人は自ら安定しており、動揺させるのは困難です(謀反しても民衆が支持しません)。これが三つ目の理由です。(呂氏は)太后の威厳によって諸呂を三王に立て、権力を独占して専横しましたが(擅権専制、太尉(周勃)が一つの符節を持って北軍に入り、一呼しただけで、士は皆左袒して劉氏のために働き諸呂に叛しました。こうして呂氏は滅ぼされたのです。これは天に授けられたのであって人の力によるものではありません。今たとえ大臣が変事を欲したとしても、百姓を使うことができないのにその党を専一(統一)できると思いますか。それに今は内に朱虚(劉章)や東牟(劉興居)といった親(宗族)がおり、外に対しては呉淮南(『資治通鑑』は「淮陽」としていますが、「淮南」の誤りです)琅邪代の強大な諸侯を畏れています。しかも高帝の子は淮南王と大王しかおらず、大王は年長で賢聖仁孝が天下に聞こえています。だから大臣は天下の心に順じて大王を迎え立てようと欲しているのです。大王が疑う必要はありません。」
 
代王劉恒は太后(母)に報告して方針を計りましたが、躊躇して決まりません。そこで卜をすると「大横」の兆が出ました。占(繇。卜辞)にはこうあります「大横庚庚,余為天王,夏啓以光。」
 
卜占の言葉なので理解が困難ですが、『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』の注釈を元に解説します。
最初の「大横庚庚」の「庚庚」は「横になっている様子」または「更(代わる)」を意味するようです。「更」と解釈した場合は、諸侯の代王が天子になることを予言しています。
「大横」を「横行」と解釈する説もあります。「横行」とは「前進して阻む者がいない」という意味です。
「余為天王,夏啓以光」の部分は「私が天王になり、夏啓が光を発する」と訳せると思います。
太古の五帝は禅譲によって天下を賢人に継承させましたが、夏王朝になって世襲が始まりました。夏啓は夏王朝の始祖大禹の子で、始めて世襲によって帝王になった人物です。夏啓は大禹の後を継いで先人の大業に光を放つことができました。
「余為天王,夏啓以光」は「代王が天王になって高帝の業を継げば、夏啓と同じように光を放つことができる」と解釈できます。
 
代王が問いました「寡人(私)は元々王である。また何の王になるというのだ?」
卜人が答えました「天王というのは天子を指します。」
 
代王は太后の弟薄昭を長安に派遣して絳侯周勃を訪ねさせました。
周勃等は薄昭に代王を迎え入れて擁立したいという意思を詳しく説明します。
薄昭は還って「信用できます。疑うことはありません」と報告しました。
代王は笑って宋昌に「公の言った通りになった」と言いました。
 
代王は宋昌に参乗(馬車に同乗する者)を命じ、張武等六人を伝車に乗せて長安に向かいました。
史記・呂太后本紀』によると、代王は上京する前に使者を送って一度辞退しました。二度目の使者が来てから、六乗の伝車に乗って出発しました。
史記・集解』は伝車を使った理由を「漢朝で変事があったら駆けて還るため」としています。
 
代王・劉恒は高陵(高帝陵)に至って休止し、宋昌を先に長安に駆けさせて様子を伺いました。
宋昌が渭橋に来た時、丞相以下群臣が出迎えに来ます。
資治通鑑』胡三省注によると、渭橋は長安の北三里に位置します。秦の時代、咸陽宮が渭水北にあり、興楽宮が渭水南にあったため、秦昭王が両宮の間に渭橋を造りました。橋の長さは三百八十歩あります(秦都・咸陽は渭水の北、漢の長安城は渭水の南にありました)
 
宋昌が戻って報告し、代王が渭橋まで駆けました。
群臣が代王を拝謁して臣と称します。代王は車から下りて答拝しました。
太尉勃が進み出て言いました「単独で話をさせてください(『漢書・文帝紀』と『資治通鑑』の原文は「願請閒」。『史記・孝文本紀』は「願請閒言。」)。」
宋昌が言いました「話の内容が公の事であるのなら公に話してください。話すことが私事であるのなら、王者には私情はありません(所言公,公言之。所言私,王者無私)。」
周勃は跪いて代王に天子の璽と符を献上しました。
しかし代王は辞退して「代邸に至ってから議論しよう」と言いました。
 
 
 
次回に続きます。