西漢時代37 後少帝(九) 文帝即位 前180年(5)

今回で西漢少帝時代が終わります。
 
[(続き)] 後九月(閏九月)己酉晦(二十九日)、代王・劉恒が長安に入って代邸に住みました。群臣も従って代邸に集まります。
丞相・陳平等が再拝して言いました「丞相臣・平(陳平)、太尉臣・勃(周勃)、大将軍臣・武(陳武。または「柴武」)御史大夫臣・蒼張蒼)宗正臣・郢劉郢)朱虚侯臣・章(劉章)、東牟侯臣・興居(劉興居)、典客臣・揭劉揭)が再拝して大王足下に進言いたします。子弘(後少帝劉弘)等は皆、孝恵帝の子ではないので、宗廟に奉じるべきではありません。臣等は謹んで陰安侯列侯頃王后および琅邪王(劉澤)、宗室、大臣、列侯、吏二千石に討議を求め、大王が高帝の長子(年長の子)なので高帝の嗣(後継者)となるべきだと決めました。大王が天子の位に即くことを願います。」
 
進言の内容は『史記孝文本紀』を元にしました。
陰安侯は『史記集解』によると、高帝の兄劉伯の妻で、羹頡侯劉信の母です。
列侯頃王后は『集解』『索隠』によると高帝の兄劉仲の妻です。劉仲は代王でしたが郃陽侯に落とされました。しかし劉仲の子劉濞が呉王になったため、頃王に追尊されました。「頃王后」の前に「列侯」とあるのは劉仲が生前は郃陽侯だったことを指すようです。
これとは別に、頃王后が「陰安侯」に封じられたという説もあります。その場合は「陰安侯列侯頃王后」で一人(劉仲の妻)になります。
漢書帝紀』は「陰安侯、頃王后、琅邪王、列侯」としており、「列侯」を「頃王后」と分けて後ろに置いています。『漢書』の注も「陰安侯」と「頃王后」を別の人物と考える説(劉伯の妻と劉仲の妻の二人)と、「陰安侯頃王后」で一人とする説(劉仲の妻)を紹介しています。
 
「宗正臣・郢」は『史記・孝文本紀』『漢書・文帝紀』とも同じですが、『漢書・百官公卿表下(巻十九下)』を見ると当時の宗正は「上邳侯劉郢客」になっています。劉郢客は楚元王・劉交(高帝の弟)の子で、後に楚王に立って夷王の諡号を贈られます。
 
本文に戻ります。
代王が言いました「高帝の宗廟を奉じるのは重大な事である。寡人は不佞(不才)なので、宗廟を奉じるのは相応しくない。楚王(高帝の弟劉交。皇族の中で最も高い地位にいます)に相応しい者を考えていただきたい。寡人には荷が重すぎる(不敢当)。」
しかし群臣は皆伏せて頑なに請います。
代王は西を向いて三回辞退し、更に南を向いて二回辞退しました。
資治通鑑』胡三省注が解説しています。代王が代邸に入った時、朝廷の群臣も従いました。代王は賓主(賓客と主人)の礼によって西を向いて座ります。主人は東側(下座)に坐り、賓客が西側(上座)に坐るのが賓主の礼なので、東側に坐った代王は西向きになります。
この状態で群臣が即位を勧めたため、代王は西を向いて三回辞退しました。しかし群臣は納得せず、代王を南向きに坐らせます。北側に坐って南を向くのは天子、南側に坐って北を向くのは臣下の席です。
代王は天子の席に座らされましたが、それでも二回断りました。
 
丞相平等がそろって言いました「臣が伏して計るに、大王が高帝の宗廟を奉じることこそ最も宜称(相応であること。ふさわしいこと)であり、天下の諸侯万民においてもそれを宜(相応)と考えています。臣等は宗廟社稷のために計っており、疎かにするつもりはありません。大王が幸いにも臣等の意見を聴くことを願います。臣は謹しんで天子の璽符を再拝献上いたします。」
代王が言いました「宗室列侯が寡人よりふさわしい者がいないというのなら、寡人は敢えて辞退しない。」
こうして代王劉恒がついに同意して天子の位に即きました。これを文帝といいます。
群臣が礼に則って新帝の前に並びました。
 
東牟侯劉興居が言いました「呂氏誅滅においては、臣は無功でした。除宮(清宮。殿中を清めること)は臣にやらせてください。」
劉興居は太僕夏侯嬰(汝陰侯滕公)と一緒に入宮し、後少帝の前まで来て「足下は劉氏の子ではないから立つべきではない」と言いました。
劉興居は振り返って左右の執戟の者(皇帝の衛士)の方を向き、武器を捨てて去るように命じました。しかし数人は武器を棄てようとしません。宦者令張釋(大謁者建陵侯)が説得してやっと武器を棄てました。
夏侯嬰が乗輿車を招いて少帝を宮殿から連れて行きました。
乗輿車は天子が乗る車で、六頭の馬が牽き、豪勢な装飾がされています。但し『資治通鑑』胡三省注は、「文帝が既に立ったのに少帝がこれに乗って宮殿を出られるはずがない」としており、この車は天子が普段移動するときに使う「小輿」のことであろうと解説しています。
 
少帝が問いました「私をどこに連れて行くつもりだ?」
夏侯嬰は「宮殿を出て住んでもらう」と答えて少府に住ませました。
その後、劉興居と夏侯嬰が天子の法駕(天子の車と儀仗の形式)を準備し、新帝を迎えるために代邸に行きました。
資治通鑑』胡三省注によると、天子の鹵簿(儀仗)には大駕、法駕、小駕の三種類がありました。それぞれ車の種類、天子に従う儀仗隊の内容等が異なり、胡三省が詳しく解説していますが省略します。
 
劉興居と夏侯嬰が報告しました「宮殿をきれいにしました(宮謹除)。」
文帝はその夜、未央宮に入りました。
しかし謁者十人が戟を持って端門(未央宮前殿の正南門)を守っており、「天子がおられます。足下は何をするために入るのですか!」と言って制止しました。
文帝が太尉周勃に状況を話し、周勃が説得に行ったため、やっと謁者十人は武器を棄てて去りました。
文帝が宮中に入ります。
 
夜、宋昌を衛将軍に任命して南北軍を鎮撫させました。
資治通鑑』胡三省注によると、前右将軍は周末にできた官で秦も踏襲しましたが、漢は常設しませんでした。漢が興きてからは大将軍と驃騎将軍を置いて丞相に次ぐ地位とし、車騎将軍、衛将軍、左後将軍を置いて上卿の上としました。
恐らく大将軍は灌嬰から始まり、驃騎車騎後将軍は景帝と武帝の時代より後にできました。衛将軍は宋昌が任命されて始まりました。
 
張武を郎中令に任命し、殿中の事務を管理させました。
 
有司(官吏)が人を分けて梁王劉太、淮陽王劉彊、恒山王劉朝と少帝劉弘をそれぞれの邸で殺しました。
史記・漢興以来諸侯王年表』によると、梁国、淮陽国、恒山国(常山国)とも廃されました。
 
文帝が未央宮前殿に戻って座り、夜の間に詔書を下しました「丞相、太尉、御史大夫に制詔する。最近、諸呂が政治を行って専権し、大逆を謀って劉氏の宗廟を危うくしようとしたが、将相列侯宗室大臣に頼って誅滅することができ、全てその辜(罪)に伏させた。朕は即位したばかりなので、天下に大赦(其赦天下)、民に爵位一級を、女子には百戸ごとに牛酒を下賜しよう(賜民爵一級女子百戸牛酒)。五日間の大宴を許可する(酺五日)。」
 
「賜民爵一級女子百戸牛酒」に関して、『史記集解』は「男には爵位を、女子には牛酒を下賜した」としています、
『索隠』は『史記封禅書(巻二十八)』から「百戸につき牛一頭と酒十石を下賜した」と書いています(『封禅書』には西漢武帝が封禅の儀式を行う場面で「民百戸に牛一頭と酒十石を下賜する(賜民百戸牛一酒十石)」と書かれています)。夫や子がいない婦人は爵位を得られないため、女子を対象に牛と酒を下賜したようです。
しかし『漢書』顔師古注は「爵位を下賜されたのは一家の長で、女子というのは爵位を与えられた者の妻である。百戸を率いて若干の牛と酒を得た。数量は定められていない」としています。
 
「酺五日」に関して、『史記集解』は「漢律では三人以上が理由もなく集まって酒を飲んだら罰金四両を科された。今回は詔によって五日間の酒宴を許可した」と解説しています。
『索隠』は「酺とは王者が徳を施すことであり、大飲酒(大酒宴)を指す」としています。金銭を出すことを「醵」、飲食を提供することを「酺」というようです。戦国時代、趙武霊王が中山を滅ぼしてから五日間の大宴を開きました(「酺五日」。東周赧王二十年295年参照)。『索隠』はこれが起源だとしています。
 
文帝が即位して詔を発したのは後九月(閏九月)己酉晦(二十九日)の事です。十月が歳首なので、翌日から新年になります。
 
 
 
次回から西漢文帝の時代に入ります。

西漢時代38 文帝(一) 薄太后