西漢時代38 文帝(一) 薄太后
今回から西漢文帝の時代です。
太宗孝文皇帝
礼によると、功がある先祖を「祖」、徳がある先祖を「宗」と称しました。漢皇室の子孫は、高帝よりも功が盛んな帝はいないとして、高帝のために太祖の廟を建てました。また、文帝よりも徳が盛んな帝はいないとして、文帝のために太宗の廟を建てました(『資治通鑑』胡三省注より)。
劉恒が代王に即位して十七年目、高后(呂太后)八年七月に高后が死にました。九月、呂産等が乱を為そうとして劉氏が危うくなったため、丞相・陳平、太尉・周勃、朱虚侯・劉章や諸大臣が共に呂氏を誅滅し、代王を招いて擁立しました。
呂氏が誅滅されてから、孝恵皇后(恵帝の皇后。張敖と魯元公主の子。呂太后の孫)だけが残って北宮(未央宮北の宮殿)に住みました。大臣群臣は代王・劉恒を迎え入れて皇帝に立てます。これが孝文帝(文帝)です(一部略)。
諸侯が秦に反して魏豹が魏王に立ってから、魏媼は娘を魏宮に入れました。魏媼が許負を訪ねて薄姫の人相を占わせると、許負は「天子を生むはずだ」と言いました。
当時は項羽と漢王(劉邦)が滎陽で対峙しており、天下の帰趨はまだ定まっていません。魏豹は漢と組んで楚を撃ちましたが、許負の言を聞くと心中で喜び、漢から離れました。初めは中立でいましたが、やがて楚と連和します。
漢は曹参等に魏王・豹を撃たせて捕え、魏国を郡にし、薄姫を織室(織物をする官署)に送りました。
魏豹の死後、漢王が織室に入って薄姫の美色を見つけ、後宮に入れました。しかし一年余経っても幸を得ることがありません。
薄姫は幼い頃に管夫人や趙子児と仲良くなり、こう約束しました「(誰かが)先に貴くなっても、お互いに忘れないようにしましょう。」
薄姫は後宮で不遇をかこいましたが、管夫人も趙子児も先に漢王の幸を得ていました。
ある日、漢王が河南宮の成皋台(『漢書・外戚伝』では「河南成皋霊台」)に坐りました。漢王に侍っていた二人の美人(管夫人と趙子児)が薄姫と以前交わした約束について話し、一緒に笑ったため、漢王が詳しく聞きました。二人は漢王に薄姫の事を説明します。
漢王は心を痛めて薄姫を憐れみ、その日、薄姫を召しました。
薄姫が言いました「昨暮夜(昨晩)、妾(私)は蒼龍が私の腹に居座る夢を見ました。」
高帝(漢王)が言いました「それは貴徵(高貴になる予兆)だ。わしが汝のために成してやろう。」
薄姫はこの一幸で男児を生みました。これが代王・劉恒です。
その後、薄姫が高帝に会う機会はほとんどありませんでした。
高帝が死んでから、高帝に寵愛された諸姫や戚夫人のような者達は呂太后の怒りを買って幽閉され、後宮から出られなくなりました。しかし薄姫はめったに高帝に会えなかったため、子に従って代国に行くことができました。薄姫は代王太后になります。弟の薄昭も代に入りました。
代王が立って十七年目に高后(呂太后)が死にました。後継者について協議した大臣達は、外家(外戚。母側の親族)の呂氏が強盛だったことを憎み、薄氏の仁善を称賛しました。こうして代王が擁立されて孝文皇帝になりました。薄氏は王太后から皇太后に改められ、弟の薄昭は軹侯に封じられました(薄昭の封侯は文帝前元年正月乙巳の事です。再述します)。
文帝即位後、薄父を追尊して霊文侯としました。墳墓がある会稽郡に園邑三百家を置き、長丞以下の官吏に墓守を命じます。寝廟(宗廟)の上食祠(供物と祭祀)は礼法に則って行われました。
また櫟陽北に霊文侯夫人園を置き、霊文侯の園と同じ儀礼を用いることにしました。
母の実家は魏王の後代に当たり、薄太后は外家の魏氏に育てられました(この部分は『漢書・外戚伝』顔師古注を参考にしました。『史記』は「其奉薄太后諸魏有力者」ですが、『漢書』は「其奉太后外家魏氏有力」としており、顔師古が「言太后為外家所養也」と解説しています)。
次回に続きます。