西漢時代39 文帝(二) 周勃 前179年(1)
今回は西漢文帝前元年です。五回に分けます。
西漢文帝前元年
壬戌 前179年
文帝は在位中に一回改元しました。改元前は前元年(前179年)から前十六年(前164年)、改元後は後元年(前163年)から後七年(前157年)です。前・後を前元・後元として「前元元年、前元二年、前元三年、後元元年、後元二年」等と書くこともあります。
[一] 冬十月(歳首)庚戌(初一日)、孝文皇帝が即阼(即位)しました。
辛亥(初二日)、高廟(高帝廟)を参謁しました。
「冬十月庚戌(初一日)、琅邪王・劉澤を燕王に遷した。
辛亥(初二日)、皇帝が即阼し、高廟を参謁した。右丞相・陳平を左丞相に、太尉・周勃を右丞相に、大将軍・灌嬰を太尉に遷した。諸呂が奪った斉・楚の故地を全て元に戻した。
皇帝が言った『呂産が自ら相国になり、呂禄が上将軍になり、勝手に命令を発して灌将軍・嬰に兵を指揮して斉を攻撃させ、劉氏に代わろうとした。しかし嬰は滎陽に留まって撃とうとせず、諸侯と合謀して呂氏を誅滅した。呂産が不善を為そうとしたが、丞相・陳平と太尉・周勃が謀って呂産等の軍を奪い、朱虚侯・劉章が率先して呂産等を捕えた(『漢書・文帝紀』では「捕えて斬った」)。太尉は自ら襄平侯・通(紀通)を率い、符節を持ち、詔を奉じて北軍に入った。典客・劉揭は身をもって趙王・呂禄の印を奪った。よって太尉・勃に万戸を益封して金五千斤を下賜する。丞相・陳平と灌将軍・嬰の邑にはそれぞれ三千戸を加え、金二千斤を与える。朱虚侯・劉章、襄平侯・通、東牟侯・劉興居(『漢書』では劉興居の名がありません)の邑にはそれぞれ二千戸を加え、金千斤を与える。典客・揭を陽信侯に封じ、金千斤を下賜する。』」
『史記・集解』は文帝の詔を十一月辛丑(二十八日)の事としています。恐らく、『漢書・高恵高后文功臣表』が劉掲の封侯を十一月辛丑としているからです。しかし中華書局の『史記・恵景間侯者年表』では劉掲の封侯が「三月辛丑」になっています。元は『漢書』と同じく「十一月」と書かれていたのに、書写を繰り返している間に縦書きの「十一」が「三」に書き間違えられたのだと思います。
「元年冬十月辛亥(初二日)、皇帝が高廟を参謁した。
十二月、趙幽王の子・劉遂を趙王に立て、琅邪王・劉澤を燕王に遷した。呂氏が奪った斉・楚の地を全て元に戻した。」
呂氏が奪った斉・楚の故地は全て元に戻された。
呂氏誅滅の功を論じ、右丞相・周勃以下の功臣に益封した。」
『史記志疑』は『史記』本文の「冬十月庚戌(初一日)、琅邪王・劉澤を燕王に遷した」と「辛亥(初二日)、皇帝が即阼し、高廟を参謁した」を「冬十月庚戌(初一日)、皇帝が即阼した。辛亥(初二日)、高廟を参謁した」と訂正し、「琅邪王・劉澤を燕王に遷した」という部分は『漢書・文帝紀』に従って十二月に置いています。
更に『史記志疑』は「辛亥(初二日)、(略)右丞相・陳平を左丞相に、太尉・周勃を右丞相に、大将軍・灌嬰を太尉に遷した」という内容にも誤りがあるとしています。その後の詔で「太尉・周勃」「灌将軍・嬰」と呼んでいるからです。
また、『史記・孝文本紀』は陳平、周勃、灌嬰の人事の後に「諸呂が奪った斉・楚の故地を全て元に戻した」と書いており、『資治通鑑』もこれに従っていますが、『漢書・文帝紀』は「十二月、趙幽王の子・劉遂を趙王に立て、琅邪王・劉澤を燕王に遷した。呂氏が奪った斉・楚の地を全て元に戻した」としています。
右丞相・陳平が病と称して辞職を願いました。
文帝が陳平に辞職の理由を問うと、陳平はこう言いました「高祖の時代、周勃の功は臣に及びませんでした。しかし諸呂誅滅に際しては、臣の功が周勃に及びませんでした。そのため、右丞相を周勃に譲りたいと思います。」
十一月辛巳(初八日)、文帝は陳平を左丞相に遷して太尉・周勃を右丞相に任命しました。当時は右が左の上になります。
大将軍・灌嬰が太尉になりました。
文帝が呂氏誅滅の功を論じ、右丞相・周勃以下の功臣が所有する戸数を増やして金を下賜しました。数量にはそれぞれ違いがあります。
絳侯・周勃は朝議が終わって趨出(小走りで退出すること。皇帝等の高貴な人の前では小走りで移動するのが礼でした)する時、とても得意になっていました。逆に文帝は恭しい態度で周勃を礼遇しており、いつも周勃を目で送り出しました。
その様子を見て、安陵の人・郎中・袁盎が諫めて言いました「諸呂が悖逆(謀反)したので大臣が協力して誅滅しました。当時、丞相(周勃)は太尉として元々兵柄(兵権)を握っていたから、機会に恵まれて成功したのです(周勃の功績は当然のことであって、特別視する必要はありません)。今、丞相には主に対して驕っている様子が見られ、逆に陛下は(丞相に対して)謙讓しています。臣主が礼を失っていますが、陛下がこのようにするのは相応しくないと思っています。」
この後、文帝は朝会において徐々に威厳を持つようになり、丞相・周勃は文帝を畏敬するようになりました。
『資治通鑑』胡三省注によると、安陵は右扶風に属し、恵帝陵建設によって邑になりました。
次回に続きます。