西漢時代40 文帝(三) 太子と皇后 前179年(2)

今回は西漢文帝前元年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』からです。
十二月、趙幽王の子劉遂を趙王に立て、琅邪王劉澤を燕王に遷し、呂氏が奪った斉楚の地を全て元に戻しました(既述)
 
琅邪王劉澤は高帝の従祖兄弟(共通の曾祖父をもつ親族)です。斉王劉襄が呂氏誅滅のために挙兵した時、劉澤の軍を奪いました。そこで、劉澤は西の京師(首都)に入り、諸大臣と共に文帝を擁立しました。
今回、その功によって燕王に立てられました。もともと燕王には呂通が封じられていましたが、前年殺されています。
史記荊燕世家(巻五十一)』によると、劉澤が燕王に遷ってから、琅邪の地は斉国に入れられたようです。『集解』は「(琅邪は)元々斉の地だったが、分けて劉澤を(琅邪)王にした。今また(琅邪が)斉に戻された」と解説しています。
 
趙王劉友は呂太后によって殺されました西漢少帝七年181年)。その後、梁王劉恢が趙王に遷されましたが、劉恢も自殺したため、呂太后は呂禄を趙王に封じました。前年、呂禄が誅されたので、今回、劉友の長子劉遂が趙王に立てられました。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
文帝が詔を発しました「法とは治世の正(規律。根拠)である(法者治之正也)。法を用いて暴を禁じることで、人を善に導くのである。しかし今は、法を犯した者を既に裁いてからも、罪のない父母、妻子、同産(兄弟姉妹)連座させ、妻子を没収して官府の奴婢にしている(收帑)。朕はこのような法を採るべきではないと考えている。これについて議論せよ。」
有司(官員)が皆言いました「民は自分を治めることができないので、法を制定して禁じるのです。相坐坐收連座没収)によって民の心を縛り、犯法を重視させているのです。このような方法は遠い昔から継承されているので、今まで通りにすれば便があります。」
文帝が言いました「朕は法が正(公正)であれば民が愨(誠実)になり、罪(刑)が当(適切)であれば民が従うと聞いている。そもそも牧民(民を管理すること)して善に導くのが吏(官吏)である。民を導くことができず、しかも不正の法で裁いていたら、逆に民を害して暴を為させることになる。そうなったらどうやって禁じられるのだ。朕にはその便が見えないから、熟計(熟慮)せよ。」
有司がそろって言いました「陛下は大恵を加えられ、徳が甚だしく盛んです。臣等の及ぶところではありません。詔書を奉じて收帑(妻子を奴婢にすること。「収孥」とも書きます)や相坐連座に関する諸律令を廃止することを請います。」
こうして收帑相坐の律令が廃止されました。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
春正月、有司(官員)が文帝に早く太子を立てるように請いました。宗廟を尊崇するためです。
文帝が言いました「朕は不徳なので、上帝神明はまだ歆享(歆饗。祭祀を享受すること)せず、天下の人民もまだ嗛志志。満足)していない。今、天下から広く賢聖有徳の人を求めて天下を譲る(禅天下)ことができずにいるのに、予め太子を立てるなどと言ったら、わしの不徳を重ねることになってしまう。どう天下に説明するのだ。このことは暫く置いておけ(其安之)。」
有司が言いました「予め太子を立てるのは、宗廟社稷を重んじて天下を忘れないためです。」
文帝が言いました「楚王(劉交。高帝の弟)は季父(叔父)であり、春秋が高く(年長者で)、天下の義理を多く経歴しており、国家の礼に明るい。呉王(劉濞。高帝の兄の子)は朕にとって兄と同じであり、恵仁で徳を好む。淮南王(劉長。高帝の子)は弟であり、徳を兼ね備えて朕を補佐している。彼等は早くから立てられた後継者ではないのか(彼等が国を受け継ぐべきだ。原文「豈為不豫哉」)。諸侯王や宗室昆弟(兄弟)には功臣がおり、多くが賢才で徳義を有している。もし有徳の者を挙げて朕では終わりを全うできない位(自分には相応しくない位)を継がせれば、それは社稷の霊(福)となり、天下の福となるだろう。今、選挙(賢人を選んで推挙すること)せずに必ず自分の子に継がせると言ったら、人々は朕が賢能有徳の者を忘れて自分の子だけに専心しており、天下のためにを憂うることがないと思うだろう。朕には同意できない。」
有司が頑なに言いました「古は殷周が国を有し、治安はどちらも千歳(千年)に及びました。これほど長い間天下を有した者は他にいません。それは、この道(子孫に継承する道理)を用いたからです。嗣(後継者)を立てる時に必ず子を選ぶのは、遠い昔から決められたことです。高帝は自ら士大夫を率いてやっと天下を平定し、諸侯を立てたので、帝(漢帝)の太祖になりました。諸侯王や列侯で始めて国を受けた者も皆、それぞれの国(王国・侯国)の祖となりました。子孫が継嗣(継承)し、世世絶えることがないのが、天下の大義です。だから高帝はこれ(太子を立てる決まり)を設けて海内を鎮撫しました。今、宜建(相応しい後継者)を棄てて諸侯宗室から選ぶのは、高帝の意志ではなく、更議(後継者を変えるという議論)は正しいことではありません。子啓(皇子・劉啓)は最年長で、敦厚慈仁なので、太子に立てることを請います。」
文帝は同意しました。
太子となった劉啓は後の景帝になります。
 
文帝は立太子を祝って天下の民で父を継ぐべき立場にいる者に爵一級を下賜しました。
 
[] 『史記孝文本紀』と『漢書帝紀』からです。
将軍薄昭を軹侯にしました。
史記集解』によると正月乙巳の事です。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
三月、有司(官員)が皇后を立てるように請いました。
太后(薄氏)が言いました「諸侯は皆同姓なので、太子の母竇氏を皇后に立てなさい。」
太子劉啓の母にあたる竇氏が皇后になりました。
 
「諸侯が皆同姓なので太子の母を皇后に立てる」というのは理解が少し困難です。『史記索隠』を元に解説します。
諸侯王は全て皇帝の子が封じられるので同姓の劉氏です。「姓」は「生」に通じるので、「同姓」は「同生(生まれが同じ)」、つまり「共通の母を持つ」という意味になります。
太子は後に皇帝になり、その兄弟は諸侯王になりますが、同姓(同生)なので、たとえ実際は異母兄弟でも共通の母が必要です。それが皇后です。
もし太子とは関係ない皇帝の妃妾が皇后になったら、太子は名義上の母(皇后)と実際の母をもつことになってしまいます。これでは太子と皇后の間に距離ができてしまうので、太子の実母が皇后(諸侯王との共通の母)として相応しいと考えられました。
 
以下、『資治通鑑』からです。
竇皇后は清河観津の人です。
竇皇后には、竇広国、字は少君という弟がおり、幼い頃にさらわれて売られてしまいました。竇広国は十余家を転々としていましたが、竇氏が皇后に立ったと聞いて、自分の生い立ちを上書します。
竇皇后が招いて験問(審問)してみると、間違いありませんでした。そこで田宅金銭を厚く下賜して兄の竇長君と一緒に長安に住ませました。
 
絳侯・周勃や将軍灌嬰等が言いました「今まで我等は死ななかったが、これからの命はこの二人に懸かっている。二人は微賎の出身なので、彼等のために師傅や賓客を選ばなければならない。そうしなければ彼等がまた呂氏を真似して大事を招くことになる。」
大臣達は士の中から節行のある者を選んで二人と生活させました。
そのおかげで竇長君と竇少君は退讓君子(謙遜できる君子)になり、尊貴な立場を利用して驕慢になることがありませんでした。
 
 
 
次回に続きます。