西漢時代41 文帝(四) 陳平 前179年(3)

今回も西漢文帝前元年の続きです。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
文帝が詔を発しました「ちょうど春和の時(春の温和、温暖の時)になり、草木群生の物は皆楽しんでいるが、我が百姓の鰥窮困の人は、あるいは死亡の縁にいるのに、その憂(苦しみ)に関心を示す者がいない。民の父母としてどうすればいいのだ。振貸(救済)の方法を議論せよ。」
「鰥」は未婚の男、または妻を失った男の意味です。「寡」は逆に未婚の女、または夫を失った女です。「孤」は孤児、「独」は身寄りのない老人、窮困は困窮貧困の者です。
 
文帝がまた言いました「老者は帛がないため温まらず、肉がないため満腹にならない。この歳首は(原文「今歳首」。詔が発せられたのは十月のようです。もしくは、この「歳首」は「春」という意味かもしれません)、頻繁に人を送って長老を存問(慰問)せよ。今後も布帛酒肉の下賜がなかったら、天下の子孫による親への孝養をどうやって助けられるのか。最近、吏(官吏)が鬻(粥。食糧)を支給する時、ある者は陳粟(古い食糧)を与えていると聞いた。これでどうして養老の意が徹底できるのだ。詳しい令(条例。決まり)を制定せよ。」
 
有司が県・道に発する令の内容を進言しました。「道」は異民族が生活する地域です。
新しく制定された令の内容はこうです。
八十歳以上の者には、毎月一人当たり米一石、肉二十斤、酒五斗を下賜します。
九十歳以上の者には、更に一人当たり帛二疋と絮(綿)三斤を下賜します。
これらの物資を下賜したり、以前から決められた鬻米(粥米)を支給する際は、長吏(下述)が閲視(検査)して丞(県丞)か尉(県尉)が届けることにしました。九十歳に満たない者には、嗇夫・令史(下述)が届けます。
二千石(郡の長)は都吏(官名)を派遣して各県を循行(巡行)させ、詔に従わない者がいないか監督しました。
但し、受刑者や既に耐(二年の刑)以上の罪を犯して判決を待っている老人は対象外としました。
 
漢書百官公卿表上(巻十九上)』と『資治通鑑』胡三省注によると、県令県長とも秦から踏襲された官です。万戸以上は県令が治め、秩は千石から六百石でした。万戸に満たない場合は県長が治め、秩は五百石から三百石でした。どちらも下に県丞と県尉がおり、秩は四百石から二百石です。県令県長と県丞、県尉は長吏とよばれました。
漢の制度では十里を一亭といい、亭長がいました。十亭を一郷とよび、三老、有秩、嗇夫、游徼がいました。このうち嗇夫は訴訟の処理をしたり賦税を徴収しました。
県の官吏で百石以下の者には斗食佐史がおり、これを「長吏」に対して「少吏」といいます。「斗食佐史」は「斗食令史」ともいうようなので、「令史」は「佐史」を指すようです。
 
尚、『史記孝文本紀』は「文帝が皇后を立てたため、天下に恩恵を施した。鰥窮困および八十歳以上の者と九歳以下の孤児に一定量の布肉を与えた」としています。
 
[] 『漢書帝紀』と『資治通鑑』からです。
楚王劉交(元王)が死にました。
史記楚元王世家』によると、子劉郢(または「劉郢客」)が継ぎました。夷王といいます。
 
[] 『漢書帝紀』『資治通鑑』からです。
夏四月、斉と楚で地震がありました。
二十九の山が同日に崩れ、大水が溢れ出しました。
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
この頃、ある者が千里の馬を献上しました。
しかし文帝はこう言いました「(皇帝が外出するときは)鸞旗が前にあり、属車が後に続く(『資治通鑑』胡三省注が鸞旗と属車の解説をしていますが省略します)。吉行(通常の外出。「吉」は恐らく「武器を使わない」という意味)でも日に五十里しか進まず、師行(行軍)では三十里しか進まないのに、朕が千里の馬に乗って先に一人でどこに行こうというのだ。」
文帝は馬を返して道里の費(路費)を与えると、詔を下してこう言いました「朕は献上された物を受け取らない。四方に来献を求めないように命じる。」
 
漢書帝紀』は「六月、郡国に来献しないように命じた」としています(『資治通鑑』では四月です。『史記孝文本紀』には記述がありません)
文帝が千里の馬を受け取らなかったという故事は『漢書厳朱吾丘主父徐厳終王賈伝下(巻六十四下)』が元になっていますが、いつの事かは明記していません。
 
[十二] 『史記孝文本紀』『資治通鑑』からです。
文帝は代から来て帝位に即くと、天下に恩恵を施し、遠近の諸侯四夷を鎮撫しました。国内外が皆喜んで融和します。
そこで、代から従って来た者の功績を表彰しました。
文帝が言いました「大臣が諸呂を誅滅して朕を迎えた時、朕は狐疑(疑うこと)し、皆も朕を止めたが、ただ中尉宋昌だけは朕に(入京を)勧めた。そのおかげで朕は宗廟を保って奉じることができたのである。既に昌(宋昌)を尊重して衛将軍に任命したが、ここに昌を封じて壮武侯とする。また、朕に従った六人(張武等)は、全て官を九卿に至らせる。」
こうして宋昌は壮武侯に封じられ、六人の重臣も昇格しました。
 
史記恵景間侯者年表』と『漢書高恵高后文功臣表』によると、宋昌は本年四月辛亥に封じられました。千四百戸です。しかし景帝中四年(前146年)に罪を犯したため、爵一級を奪われて関内侯に落とされました。
 
漢書公卿百官表上』によると、漢の九卿は奉常(後の太常)、郎中令(後の光禄勲)、衛尉、太僕、廷尉、典客(後の大鴻臚)、宗正、治粟内史(後の大司農)、少府を指します。秩は全て中二千石です。
 
史記孝文本紀』からです。
文帝が言いました「列侯で高帝に従って蜀漢中に入った六十八人には、全て各三百戸を益封(加封)する。二千石以上の故吏(旧官吏)で高帝に従った潁川守(尊は人名)等十人には食邑六百戸を加える。淮陽守申徒嘉等十人には五百戸を、衛尉(定は人名。『漢書帝紀』では「衛足」)等十人には四百戸を加える。淮南王の舅父(妻の父)趙兼を周陽侯に、斉王の舅父駟鈞を清郭侯に封じる。」
 
史記恵景間侯者年表』『漢書外戚恩沢表』によると、趙兼と駟鈞が封侯されたのは四月辛未のことです。また、『史記恵景間侯者年表』では駟鈞の「清郭侯」が「清都侯」に、『漢書帝紀』では「靖郭侯」になっており、『漢書外戚恩沢表』は「鄔侯」としています。
 
漢書帝紀』は「六月」に宋昌を壮武侯に封じ、文帝に従った六人を九卿にしたという内容から、列侯や二千石以上の官吏に益封したこと、趙兼を周陽侯に、駟鈞を靖郭侯に封じたことを書いており、その後に「元常山丞相蔡兼を樊侯に封じた」としています。
しかし『史記恵景間侯者年表』と『漢書高恵高后文功臣表』『漢書外戚恩沢表』を見ると、蔡兼が樊侯に封じられたのは六月丙寅ですが、宋昌、趙兼、駟鈞の封侯は上述の通り四月に書かれています
史記孝文本紀』は秋に蔡兼を樊侯に封じたとしていますが、六月まだ夏です。
 
[十三] 『史記孝文本紀』と資治通鑑』からです。
文帝が国家の事をますます習熟しました。
そこで、ある日の朝会で右丞相周勃に問いました「天下において一歳(一年)の決獄(獄の判決)はいくらあるか?」
周勃は詳細を把握していないことを謝罪しました。
文帝がまた問いました「一歳に入る銭穀はいくらあるか?」
周勃はまた把握していないことを謝罪します。恐れ慌てて汗が背を濡らしました。
文帝は左丞相陳平にも同じ質問をしました。
すると陳平は「主者がいます(それらを主管している者がいます。原文「有主者」)」と答えました。
文帝が問いました「主者とは誰だ?」
陳平が言いました「陛下が決獄について問うのなら、廷尉(法官)に問うべきです。銭穀について問うのなら、治粟内史に問うべきです。」
資治通鑑』胡三省注によると、治粟内史は秦から踏襲した官で、穀物貨幣を管理していました。武帝時代に大司農に改名されます。
 
文帝が問いました「それぞれに主者がいるのなら、君は何を主管しているのだ?」
陳平が謝罪して言いました「陛下は臣の駑下(愚鈍で能力がないこと)を知らなかったので、宰相を任されました(原文「使待罪宰相」。「待罪」は能力がないのに官職に就いて罰を待つこと。謙遜の言葉です)。宰相というのは、上は天子を補佐し、陰陽を理し(調整し)、四時(四季)を順じさせます(順調にさせます)。下は万物の宜(事理)を順調にさせ(万物を順調に育てさせ。原文「遂万物之宜」)、外は四夷諸侯を鎮撫し、内は百姓を親附させ、卿大夫にそれぞれの職を全うさせます。これが宰相の責任です。」
文帝は陳平を称賛しました。
右丞相周勃は大いに恥じ入り、退出してから陳平を責めて言いました「君は今までどう答えるか教えてくれなかった。」
陳平が笑って言いました「君はその位(地位)にいながらその任(任務)を知らなかったのか?もし陛下が長安中の盗賊の数を訊ねたら、君は無理にでも答えようとするのか?」
周勃は自分の能力が陳平に遠く及ばないことを知りました。
 
暫くして、ある人が周勃に言いました「あなたは既に諸呂を誅殺し、代王を立てて威が天下を震わせました。今はその功績に驕り、厚賞を受けて尊位にいます。久しくそのままでいたら禍が身に及ぶでしょう。」
周勃も危険を感じたため、病と称して相印を返すことを申し出ました。文帝はこれを許可します。
 
秋八月辛未(二十日)、右丞相周勃が罷免され、左丞相陳平が単独で丞相になりました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代42 文帝(五) 南越帰順 前179年(4)