西漢時代42 文帝(五) 南越帰順 前179年(4)

今回も西漢文帝前元年の続きです。
 
[十四] 『史記南越尉佗列伝(巻百十三)』『漢書西南夷両粤朝鮮伝(巻九十五)』『資治通鑑』からです。
以前、隆慮侯周竈が南越を討伐しましたが西漢少帝七年181年)、暑濕(熱暑と湿潤)に遭って士卒が大疫(疫病)を患い、領を越えられませんでした。
「領」は「嶺」と同義で、『史記南越尉佗列伝』の注釈(索隠)は「陽山嶺」としています。
 
出兵してから一年余経って高后(呂太后が死んだため、漢軍は引き上げました。
 
南越帝趙佗(尉佗)はその隙に兵を使って辺境を威圧し、財物を使って閩越、西甌、駱を籠絡しました。周辺の民族が南越に属し、南越の地は東西万余里に及ぶようになります。
南越帝は黄屋左纛(大旗を掲げた黄色い屋根の車。皇帝の車)に乗って称制(皇帝として政治を行うこと)し、中国の皇帝と対等の振舞いをするようになりました。
 
「西甌、駱」に関して、『漢書』顔師古注は「西甌は駱越である」としており、「西甌駱」で一つと解釈しているようですが、恐らく「西甌」と「駱」は別の集団で、「駱」が「駱越」を指すはずです。尚、『大越史記全書』では「甌駱国」としています(下述)
史記集解』と『資治通鑑』胡三省注から「駱」の解説です。
交趾には駱田があり、周辺の人々は潮水が上下するのを利用して灌漑を行い、田地の収穫を得て生活していました。この人々を「駱人」といいます。駱人には駱王と駱侯がおり、諸県は「駱将」と称して銅印青綬を佩していました。駱将は県の令・長に当たります。後に蜀国の王子が兵を率いて駱侯を討伐し、自ら安陽王を名乗って封溪県(地名)を治めました。
しかし更に後に南越王尉他が安陽王を攻めて破り、二人の使典(官吏)に交阯と九真の二郡を治めさせました。
 
安陽王に関する記述は『大越史記全書(巻之一)』にあります(一部は西漢高帝十一年196年にも述べました)
安陽王は蜀王の子で、姓氏を蜀、名を泮といいました。安陽王の立てた国を甌駱といい、元年は東周赧王五十八年(前257年)に当たります。
安陽王三十七年に秦始皇帝が中国を統一しました。
安陽王四十四年(秦始皇帝三十三年214年)、秦が南征しました。任囂を南海尉に、趙佗を龍川令に任命します。
安陽王四十八年(秦始皇帝三十七年210年)、秦始皇帝が死にました。任囂と趙佗が甌駱国に進攻しましたが、趙佗は北江僊遊山で安陽王に敗れて敗走し、任囂も小江で病を患って退却しました。
安陽王五十年(秦二世皇帝二年208年)、任囂が病で死に、趙佗が南海を治めることになりました。趙佗は兵を発して甌駱国を撃ちます。安陽王は破れて自殺しました。
翌年(秦二世皇帝二年208年)、趙佗が南越王を称しました。
西漢高帝の時代になって南越王・趙佗は漢に帰順しましたが、呂太后の時代に反して武帝を名乗りました。
 
本文に戻ります。
西漢文帝前元年(本年)、文帝は天下を鎮撫したばかりだったため、諸侯四夷に使者を派遣し、代王から皇帝の位に即いたことを伝えました。漢帝の盛徳を四方に宣伝します。
南越帝趙佗の親冢(両親の墓)が真定にあったため、文帝は守邑(守衛)を置いて四季の祭祀を行わせました。また趙佗の従兄弟を召して厚遇し、尊官厚賜を与えます。
 
文帝が丞相陳平等に南越への使者の人選をさせると、陳平は好畤の人陸賈を推薦しました。陸賈は先帝(高帝)の時代にしばしば使者として南越を訪問していたからです。
文帝は陸賈を召して太中大夫に任命し、謁者一人を副使にして、国書を持たせて南越に派遣しました。趙佗が勝手に帝位に立ち、一人の使者も送ってこなかったことを譴責させるためです。
国書にはこう書かれていました「皇帝が謹んで南粤王(南越王)に問い、甚だしく苦心労意する(皇帝が心から南越王を想って質問する)。朕は高皇帝の側室の子であり、外に棄てられて代の地で北藩を奉じた。道里(道程)が遼遠なうえ、壅蔽樸愚(視野が狭くて愚扑なこと)だったため、いまだに(南越に)書を送ったことがなかった。高皇帝が群臣を棄て崩御して)、孝恵皇帝も即世し(逝去し)、高后が自ら政事に臨んだが、不幸にも疾(病)があったため、日に日に衰弱して誖暴(昏迷暴虐)によって天下を治めた。そこで諸呂が旧制を変えて法を乱したが、独制できないため(呂氏だけでは天下を制御できないため)、他姓(劉姓以外)の子を孝恵皇帝の嗣(後継者)に立てた。しかし宗廟の霊と功臣の力のおかげで既に(呂氏を)誅滅できた。朕は王侯吏(諸侯王列侯百官)が同意しないため、やむなく立って即位した。
少し前に王(趙佗)が将軍隆慮侯に書を送って親昆弟(実の兄弟)を求め、併せて長沙の両将軍(趙佗が反した時、長沙王は二将軍を派遣して備えたようです)を罷免するように要求したと聞いた。朕は王の書に従って将軍博陽侯(『資治通鑑』胡三省注によると「陳濞」といいます)を罷免し、真定にいる親昆弟に人を送って慰問し、更に先人の冢(墓)を改修した。
先日は、王が兵を発して国境に至っており、寇災が止まないと聞いた。当時は長沙がこれに苦しみ、南郡が特にひどかった。たとえ王の国であっても、利だけがあるというのか(戦争をしたら利益だけでなく損失もあるはずだ)。必ず多くの士卒が殺され、良い将吏が傷つき、人の妻を寡婦とし、人の子を孤児とし、人の父母を一人にさせる(身寄りのない老人を生むことになる。原文「独人父母」)。これでは一を得ても十を失うだろう。朕はこれを忍ぶことができない。
朕は犬牙が交錯したような地を定めようとしたが(国境を改めて定めようとしたが)、官吏に聞いたところ、官吏は『(入り組んだ国境は)高皇帝が長沙の領地を隔てるために設けたのです(入り組んだ国境によって長沙の領域が決められています)』と答えた。朕には勝手にこれを変えることができない。また、官吏はこう言った『王(南越王)の地を得ても(漢の)地を広くするには足らず、王の財を得ても(漢の)富とするには足らないので、領(山嶺。長沙南界)以南を(南越王の)支配下において王が自ら治めるようにするべきです。』
たとえそうだとしても、王が帝を号しているため、両帝が並立して一乗の使者も道を通じることがない。これは争(戦争状態)である。争であって譲らないのは、仁者が為すことではない。
(朕は)王と共に前患を棄て、今からは以前と同じように使者を通じさせたいと思うので、賈(陸賈)を馳せさせて王に朕の意志を伝えることにした。王がもし受け入れるのなら、寇災となることはないだろう。上褚五十衣、中褚三十衣、下褚二十衣(「褚」は綿服)を王に贈るので、王が音楽を聴いて憂患を排除し、隣国(周辺民族)を慰問することを願う。」
 
陸賈が南越に至ると、南越帝は恐れて頓首謝罪しました。明詔(漢天子の詔)を奉じて長く藩臣となり貢職(貢物)することを願います。
また、国中にこう宣言しました「わしは両雄が共に立つことはなく、両賢が世に並ぶこともないと聞いている。漢の皇帝は賢天子である。よって今から帝制と黄屋左纛を除くことにする。」
 
趙佗が書を準備して文帝にこう伝えました「蛮夷の大長老夫臣佗が死を冒して皇帝陛下に再拝上書します。老夫はかつて粤の官吏でしたが、高皇帝が幸いにも臣佗に璽を下賜して南粤王に封じ、外臣として定期的に貢職させました。孝恵皇帝が即位してからも義によって関係を断つことがなく、老夫にはとても厚い恩恵が与えられました。ところが高后が自ら政治に臨むと、細士(小人)を近づけて讒臣を信じ、南越を隔絶して蛮夷と同等とみなし、こう命じました『蛮夷外粤に金鉄田器を与えてはならず、馬羊を与える場合は牡だけを与え、牝を与えてはならない(家畜の繁殖を防ぐためです)。』老夫は僻地に住んでおり、馬羊の歯も既に長くなりました(年をとりました)。祭祀を修めなければ死罪に値すると考えたので(家畜がいなければ祭祀ができません)、内史藩、中尉高、御史(藩、高、平は人名)を三回に分けて派遣し、過失を謝罪する上書を行いましたが、誰も戻って来ませんでした。また、老夫の父母の墳墓が既に掘り起こされて焼かれ、兄弟宗族も死罪にされたと噂で聞きました。そこで官吏が議してこう言いました『今、内に対しては漢によって振るうことができず(漢の尊重を得られず。漢に従っても国が振るうことなく。原文「不得振於漢」)、外に対しては他よりも上であることを示す術がありません(漢が蛮夷とみなしているので、他の民族と同じ地位にいます。原文「亡以自高異」)。』
これらのことが原因で自ら(南越王の)地位を棄て、号を改めて帝としましたが、自分の国内で帝を称しただけで、天下を害すつもりはありませんでした。ところがこれを聞いた高皇后は大怒して南粤の籍を削り(南越王の名義を削り)、使者を通じなくしました。老夫は秘かに長沙王が臣を讒言したのではないかと疑ったので、敢えて兵を発してその辺境を攻めたのです。そもそも南方は卑湿(地形が低くて湿度が高いこと)ですが、蛮夷の中において西には西甌があり、その衆の半数が羸(「其衆半羸」は『漢書』の記述で、「羸」は「劣弱」の意味です。『史記』では「其西甌駱裸国」としています。西にある甌駱は文化が遅れているので人々が裸で生活しているという意味です)なのに南面して王を称しており、東には閩粤があり、その衆は数千人しかいないのに王を称しており、西北には長沙があり、その半数が蛮夷なのにやはり王を称しています(長沙国の半数は異民族が雑居していたようです)。そこで老夫は妄りに帝号を僭称してとりあえず自らの楽しみとしましたが、この事を天王に聞かせるつもりはありませんでした。
老夫はこの身で東西南北数千万里に及ぶ百邑の地を平定し、帯甲(甲冑を身につけた将兵百万余を有していますが、北面して漢に臣事しています。それはなぜでしょうか。先人を裏切るつもりがないからです。老夫は粤にいて四十九年が経ち、今は孫を抱いています。しかし朝早くに起きて夜晩く寝て(夙興夜寐)、寝ても席(寝床)で安んじることなく(寝不安席)、食事をしてもおいしいと思えず(食不甘味)、目にも華美な色が見えず(目不視靡曼之色)、耳にも音楽が聞こえません(耳不聴鍾鼓之音)。これは漢に仕えることができないからです。今、幸いにも陛下が哀憐して旧号を回復し、以前のように漢と使者を通じさせました。老夫は死んでも骨が腐ることはありません(死後も変わることがありません。死んでも不朽です。原文「老夫死骨不腐」)。号を改めて王に戻し、今後、敢えて帝を称すようなことはしません。謹んで北面し、使者を通じて白璧一双、翠鳥千、犀角十、紫貝五百、桂蠹(桂の樹に住む虫。食用のようです)一器、生翠四十双、孔雀二双を献上します。死を冒して再拝し、皇帝陛下に報告します。」
 
陸賈が帰国して報告すると文帝は大いに喜びました。
 
 
 
次回に続きます。