西漢時代43 文帝(六) 賈誼登場 前179年(5)

今回で西漢文帝前元年が終わります。
 
[十五] 『資治通鑑』からです。
斉王劉襄(哀王)が死にました。
史記斉悼恵王世家(巻五十二)』によると、劉襄の太子劉則が継ぎました。文王といいます。
 
[十六] 『資治通鑑』からです。
文帝が河南守(郡守)呉公の政治は天下第一であると聞き、朝廷に召して廷尉に任命しました。
 
呉公が洛陽の人賈誼を推挙しました。洛陽県は河南郡に属します。
文帝は賈誼を召して博士にしました。『資治通鑑』胡三省注によると、博士は秦から踏襲した官です。古今の事に精通した者が任命され、秩は比六百石で、多い時は数十人も設けられました。
後に西漢武帝が「五経博士」を置き、宣帝が十二人に定めました。奉常に属します。
 
当時、賈生(賈誼)は二十余歳でした。文帝は賈生の辞博(文辞と博識)を愛し、一年も経たずに太中大夫に抜擢します。
資治通鑑』胡三省注によると、太中大夫は論議を管理します。員数の規定はなく、多い時は数十人いました。秩は比千石で郎中令に属します。
 
賈生は正朔(暦)を改めること(改正朔)、服の色を変えること(易服色)、官名を定めること(定官名)、礼楽を興すこと(興礼楽)によって漢制を立てて秦法を改めるように請いました。しかし文帝はこれらのことに対して慎重な態度をとり、結局採用しませんでした。
 
賈誼の提案について『資治通鑑』胡三省注を元に少し解説します。
三代夏商周にはそれぞれ暦がありました。これを三正、または三統といいます。秦は三代と異なる暦を使い、漢はそれを踏襲しました。賈誼が暦を改めるように主張したのは、旧王朝(秦)の暦を継承するべきではないと考えたからです。
周は火徳の王として赤を尊びました。漢は周を継いだと考えていたため(秦は暴虐で短期政権だったため、漢は秦ではなく周を継承したという立場をとりました)、土徳の王(統治者)になります。五行思想では土が火に克つからです。そこで賈誼は土徳の色である黄色を尊ぶように主張しました。服の色を変えるというのは、王朝が貴ぶ色を定めることを意味します。
(堯)(舜)は百の官を置き、夏商は官数を倍にし、周は官制を整えました。六卿がそれぞれ官属を率い、その数は三百六十になります。その後、秦が百官の職名を定めて漢はそれに倣いましたが、賈誼は秦から脱却して漢による官制を定めるべきだと考えました。
高帝の時代、叔孫通が秦の儀礼を元に朝廷の礼を制定し、秦の楽人に宗廟の楽(音楽)を作らせました。賈誼は漢による儀礼音楽を作るべきだと進言しました。
 
[十七] 『史記漢興以来諸侯王年表』『漢書異姓諸侯王表』『漢書韓彭英盧呉伝(巻三十四)』によると、この年、長沙王呉右(または「呉若」)が死にました。諡号は恭王(または「共王」)です。
子の靖王が跡を継ぎました。
 
靖王の名を『漢書韓彭英盧呉伝(巻三十四)』は「呉差」、『史記漢興以来諸侯王年表』は「呉著」、『漢書異姓諸侯王表』は「呉産」としています。
 
 
 
次回に続きます。