西漢時代43 文帝(六) 賈誼登場 前179年(5)
今回で西漢文帝前元年が終わります。
斉王・劉襄(哀王)が死にました。
文帝が河南守(郡守)・呉公の政治は天下第一であると聞き、朝廷に召して廷尉に任命しました。
呉公が洛陽の人・賈誼を推挙しました。洛陽県は河南郡に属します。
文帝は賈誼を召して博士にしました。『資治通鑑』胡三省注によると、博士は秦から踏襲した官です。古今の事に精通した者が任命され、秩は比六百石で、多い時は数十人も設けられました。
当時、賈生(賈誼)は二十余歳でした。文帝は賈生の辞博(文辞と博識)を愛し、一年も経たずに太中大夫に抜擢します。
賈生は正朔(暦)を改めること(改正朔)、服の色を変えること(易服色)、官名を定めること(定官名)、礼楽を興すこと(興礼楽)によって漢制を立てて秦法を改めるように請いました。しかし文帝はこれらのことに対して慎重な態度をとり、結局採用しませんでした。
賈誼の提案について『資治通鑑』胡三省注を元に少し解説します。
三代(夏商周)にはそれぞれ暦がありました。これを三正、または三統といいます。秦は三代と異なる暦を使い、漢はそれを踏襲しました。賈誼が暦を改めるように主張したのは、旧王朝(秦)の暦を継承するべきではないと考えたからです。
周は火徳の王として赤を尊びました。漢は周を継いだと考えていたため(秦は暴虐で短期政権だったため、漢は秦ではなく周を継承したという立場をとりました)、土徳の王(統治者)になります。五行思想では土が火に克つからです。そこで賈誼は土徳の色である黄色を尊ぶように主張しました。服の色を変えるというのは、王朝が貴ぶ色を定めることを意味します。
唐(堯)・虞(舜)は百の官を置き、夏・商は官数を倍にし、周は官制を整えました。六卿がそれぞれ官属を率い、その数は三百六十になります。その後、秦が百官の職名を定めて漢はそれに倣いましたが、賈誼は秦から脱却して漢による官制を定めるべきだと考えました。
子の靖王が跡を継ぎました。
次回に続きます。