西漢時代44 文帝(七) 賢良方正の挙 前178年(1)

今回は西漢文帝前二年です。二回に分けます。
 
西漢文帝前二年
癸亥 前178
 
[] 『史記孝文本紀』資治通鑑』からです。
冬十月、曲逆侯丞相陳平(献侯)が死にました。
 
[] 『史記孝文本紀』漢書帝紀資治通鑑』からです。
文帝が詔を発しました「古に建国した諸侯は千余にのぼるが、それぞれ自分の地を守って、決められた時に入貢し、民は労苦せず、上下が驩欣(歓ぶこと)し、徳に違えることがなかったと聞いている(『史記』は「靡有遺徳」で「徳が漏れることがなかった」。『漢書』は「靡有違徳」で「徳に違えることがなかった」)。今、列侯の多くが長安に住んでおり、封邑が遠いため、吏卒が物資の輸送で費苦(労苦)し、しかも列侯が自分の民を教馴(教導)する機会もない。よって、列侯が国に赴くことを命じる。吏(朝廷の卿大夫)に任命されている者および詔によって(京師に)留められている者は太子を派遣することにする。」
 
[] 『史記孝文本紀』資治通鑑』からです。
十一月乙亥(中華書局『白話資治通鑑』によると、「乙亥」は恐らく誤りです)、周勃が再び丞相になりました。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
日食がありました。
 
史記孝文本紀』は日食の日を「十一月晦」と「十二月望(十五日)」の二回としていますが、『正義』は「十一月晦」について、「日蝕は朔(初一日)、月蝕は望(十五日)に起きるので、晦(月の最後の日)に日食が起きたというのは、恐らく暦の誤り」と指摘しています。また「十二月望」については『集解』が「『漢書』にはこの記述がない。一説では『月食』ともいうが、史書月食を記録しないものである」として「十二月望」の日食も疑っています。
漢書』は「十一月癸卯晦」に日食があったとしており、『資治通鑑』もこれに倣っています。しかし中華書局『白話資治通鑑』は「癸卯晦」も恐らく誤りとしています。
 
当時は統治者の徳が足りないと天変地異が起きると考えられていました。
そこで文帝が詔を発しました「朕は天が蒸民(民衆)を生み、彼等のために君を置いて養い治めさせたと聞いている。人主が不徳で布政(施政)が不均(不公平)なら、天が菑(災)によって示し、不治(天下が治まっていないこと)を誡めるものである。今回、十一月晦に日食が起きた。これは天が譴責を示したのであり、これ以上に大きな菑(災)はない。朕は宗廟を継承して微眇(微細)な身を兆民君王(『史記』は「兆民君王」。兆民は万民の意味。『漢書』では「士民君王」)の上に託されており、天下の治乱は朕一人にかかっている。ただ二三の執政(大臣)だけがわしの股肱のような存在である。
朕は、下に対して群生(全ての生命)を治め育てることができなかったため、上に対して三光(日星)明に影響を与えてしまった(日食を招いてしまった)。この不徳は甚大である。よって令が至ったら(この詔を受け取ったら)、朕の過失をことごとく検討し、知(知恵)(見聞)(思慮)が及んでいない事を全て朕に啓告(教えて道を開くこと)してほしい。また、賢良方正の士と直言極諫ができる者を推挙し、朕の及ばないことを正せ。この機会にそれぞれ任職(または「職任」。「職責」の意味)を整理し、繇費(徭役租税)を削って民の便を図ることに務めよ。
朕は徳を遠くに施すことができないので、憪然(不安なこと)して外人(遠方の異民族)に非(悪事)があるのではないかと心配している。そのため設備(守備。防備)を排除するわけにはいかない。今、辺境の屯戍を廃止するわけにはいかず、そのうえ兵を整えて(京師を)厚く守っている(辺境の守りを除くことはできないが、京師の守りを過度に厚くする必要はない)。よって衛将軍の軍を廃止する(衛将軍の名は翌年にも見られるので、将軍職がなくなったわけではありません。指揮下の軍が解散されました)。太僕は今いる馬の中で最低必要な数だけ留め、残りは全て伝駅に分配せよ。」
 
今回の詔が命じた「賢良方正の挙(推挙。選挙)」は漢代における官吏登用の基準になります。
 
潁陰侯灌嬰の騎従賈山が上書して治乱の道について語りました「雷が落ちた場所は摧折(毀損)しないものはなく、万鈞に押し潰された場所は糜滅(くずれて滅びること)しないものはない(雷霆之所撃,無不摧折者。万鈞之所圧,無不糜滅者)といいます。今、人主の威は雷霆を越えており、埶重(権勢の重み)は万鈞を越えています。道を開いて諫言を求め、和やかな顔色で受け入れ、その言を用いてその身を顕とし(取り立てて高貴な位につけ)たとしても、士はまだ恐懼して敢えて全てを語ろうとしません。もし(人主が)欲をほしいままにして暴虐を行い、過失を聞くことを嫌うようならなおさらです。震(雷)のような威(君威)と万鈞の重みのような圧があったら、たとえ堯舜の智や孟賁の勇があったとしても、摧折(毀損)しない者がいるでしょうか。このようであるので、人主が過失を聞けなくなったら社稷は危うくなるのです。
昔、周は千八百国を覆い(『資治通鑑』胡三省注によると、周の爵位は五等あり、土地は三等に分けられました。公侯の領地は百里、伯の領地は七十里、子男の領地は五十里で、それ以下の者は附庸とされます。九州は一州が方千里あり、その内の八州にはそれぞれ二百十国が存在しました。天子の県内(近畿)は九十三国で、九州(近畿と八州)を併せて千七百七十三国になります。ここで千八百国といっているのはおおよその数です)、九州(全国。揚州、荊州豫州青州、兗州、雍州、幽州、冀州并州の民によって千八百国の君を養い(全国の民が千八百の国君に統治されて租税を納めました。民が国君を養うというのは税を納めることを指します)、君(国君)の財には余りがあり、民の力にも余りがあったため、頌声(国君の美徳を称賛する歌)が作られました。ところが秦皇帝始皇帝は千八百国の民に自分を養わせました。民は力が疲弊して徭役に堪えられなくなり、財が尽きて要求に応えられなくなります。始皇帝は)たった一君の身に過ぎず、自分を養うのに必要なものも馳騁弋猟(狩猟)の娯楽に過ぎませんが、天下は供給できなくなったのです。秦皇帝は自分の功徳を計って後嗣が世世無窮であると想像しました。しかしその身が死んでわずか数カ月で、天下の四面が挙兵して攻撃し、宗廟が滅絶しました。秦皇帝は滅絶の中にいながらそれを理解できませんでしたが、なぜでしょうか。天下が敢えて告げなかったからです。それではなぜ敢えて告げる者がいなかったのでしょうか。養老の義がなく、輔弼の臣がなく、誹謗の人を退け、直諫の士を殺したからです。その結果、阿諛を述べて保身のために迎合している者合苟容)始皇帝の)徳を堯舜より上だといい(徳則賢於堯舜)、功績を量って湯(商の成湯と西周武王)より上とし(課其功則賢於湯武)、天下が潰れても真実を告げる者がいなくなったのです。
今、陛下は天下に賢良方正の士を挙げさせました。天下は皆、喜んで『これから堯・舜の道と三王の功が興る』と言っています。天下の士において、精白(潔白清廉)になって休徳(美徳)を担おうとしない者はいません。今、方正の士は全て朝廷におり、更にその中から賢者が選ばれて常侍や諸使となり、(陛下は)彼等と共に馬を駆けさせて狩猟を行い(馳駆射猟)、一日に再三外出しています。しかし臣はそれが元で朝廷が解弛(弛緩)し、百官が政務を疎かにするのではないかと恐れています。陛下は即位してから、自ら勉めて天下に厚く恩恵を施し、節用(倹約)して民を愛し、獄を公平にして刑を軽くしたので(平獄緩刑)、天下で喜ばない者はいません。臣は山東(崤山以東)の官吏が詔令を発布した時、老羸癃疾(老衰疾病)の民も杖を持って聞きに行き、少しの間でも長生きして徳化の成果を見たいと思っていると聞きました。今、功業が成就したばかりで、名声がやっと明らかになり、四方が敬慕して従っています(向風而従)。それなのに豪俊の臣と方正の士だけが(陛下と)共に毎日射猟し、兔を撃ち、狐を狩り、大業を傷つけて天下の望を絶っています。臣はこれを惜しいことだと思っています。古においては、大臣は宴游に参加できず、自分の方(道)に務めてその節(品格。節操)を高めさせたものです。そうすれば全ての群臣が自分の身を正して行いを修め、大礼に釣り合うために心を尽くすようになるのです。士は自分の家で身を修めるものですが、天子の廷(朝廷)においてそれが壊されるのは惜しいことだと思います。陛下は衆臣と宴游し、大臣方正とは朝廷で論議するべきです。宴游して楽しみを失わず、朝議において礼を失わないのが、軌事(法度法則)において最も重大なことです。」
文帝は賈山の言を称賛して採用しました。
 
文帝が上朝(朝廷に行くこと。朝議に参加すること)する時に郎や従官が奏書を持って来たら、文帝はいつも輦を止めて受け入れました。すぐ採用する必要がない進言は一方に置き、採用するべき進言はすぐに用いて必ず称賛しました。
 
 
 
次回に続きます。

西漢時代45 文帝(八) 重農主義 前178年(2)