西漢時代45 文帝(八) 重農主義 前178年(2)

今回は西漢文帝前二年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』から袁盎に関する故事です。
文帝が霸陵(文帝陵)から西に駆けて急な坂を下りようとしました。
すると中郎将袁盎が馬を走らせて文帝の車に並び、轡(手綱)を挽きました。
文帝が問いました「将軍は怯えているのか(怯邪)?」
袁盎が答えました「『千金の子は堂の外辺(縁)に坐らない(「千金之子,坐不垂堂」。堂の縁に坐ったら軒から瓦が落ちて来る恐れがあります。富人は自分を大切にするから危険な場所にはいかないという意味です)』と聞いています。聖主は危険を冒さず、徼幸(幸運)を求めないものです。今、陛下は六頭の馬を飛ぶように駆けさせて峻山を下りようとしましたが、もし馬が驚いて車が破損したら、陛下は身勝手にも自分を軽んじたことになります。高廟や太后に対してどうするつもりですか。」
文帝は坂を駆け下りるのを止めました。
 
文帝は慎夫人を寵愛しており、禁中で常に皇后と同席させていました。
文帝が上林苑を訪れた時、郎署に宴席が設けられましたが、袁盎はわざと慎夫人の席を皇后より後ろに置きました。
資治通鑑』胡三省注によると郎署は上林苑の直衛の署です。袁盎はこの時、中郎将だったので、郎署の宴の準備をしました。
 
慎夫人は自分の席が後ろに配されていたため、怒って座ろうとしませんでした。文帝も怒って立ち上がり、禁中に帰ってしまいます。
袁盎がこれを機会に文帝に言いました「臣は『尊卑に序列があれば上下が和す(尊卑有序,則上下和)』と聞いています。今、陛下は既に后(皇后)を立てました。慎夫人は妾です。妾と主(皇后)がどうして同じ席に座れるのでしょうか。そもそも陛下が寵愛しているのなら、厚く賜ればいいだけのことです。陛下が慎夫人のためにしていることは、まさに禍となるでしょう。陛下だけが『人彘』を知らないのですか。」
文帝は進言に喜び、慎夫人を招いて話をしました。
慎夫人は袁盎に金五十斤を下賜しました。
 
[] 『資治通鑑』からです。
賈誼が文帝に言いました「『管子』には『倉廩が満ちて礼節を知り、衣食が足りて栄辱を知る(倉廩実而知礼節,衣食足而知栄辱)』とあります。民が不足しているのに治めることができた者は、古から今に至るまで聞いたことがありません。古の人はこう言いました『一夫が耕さなければ誰かが餓えることになり、一女が織らなければ誰かが凍えることになる(一夫不耕,或受之飢。一女不織,或受之寒)。』どんな物でも生まれる時(時機。季節)が決まっており(生之有時)、用いて限度がなかったら物力(物資)は必ず尽きてしまいます。古の天下を治める様子は至繊至悉(「繊」は細かいこと。「悉」は全て。あわせて「周到」「完全」の意味)だったので、畜積が充分あって頼りにできました。ところが今は本(農業)に背いて末(工商業)に走る者(背本而趨末者)が甚だ多く、天下の大残(大きな弊害)となっています。淫侈(浪費。奢侈)の俗が日日増長しており、天下の大賊(大きな害)となっています。残と賊が横行したら誰も止めることができず、大命(命脈)が覆ったら誰も振救(救済)できなくなります。生産する者(生之者)が甚だしく少ないのに浪費する者(靡之者)が甚だしく多かったら、天下の財産はどうして枯渇しないでしょう。
漢の天下になってから(原文「漢之為漢」)四十年になりますが、公私の蓄積はまだ哀痛すべきものです。もし時を失って雨が降らなかったら、民は狼顧し(「狼顧」は狼が後ろを心配して頻繁に顧みる姿。不安な様子を表します)、歳(年の収穫)が悪くなって食物が入らず、爵位や自分の子を売るようになります。これらのことは既に(天子の)耳にも聞こえています。これほど天下が阽危(危険)なのに上(陛下)が驚き恐れないことがあるでしょうか。
この世には饑(不作)と穰(豊作)があります。これは天の行(道。規律)であり、禹湯も経験しました。もし不幸にも方二三千里で旱害が起きたら、国はどうして援けるのでしょうか。突然、辺境で急事が発生し、数十百万の衆を動員することになったら、国はどうやって食糧を供給するのでしょうか。兵乱と旱害が同時に発生したら、天下の物資が大いに欠乏するので、勇力の者が徒を集めて衡撃(略奪攻撃)し、罷夫疲労し男)や羸老(病弱の老人)が子を交換してその骨を噛むことになります。政治が行き届かなくなったら、遠方において帝位を僭称できる有力の者が並立して争いを始めます。その時になって驚いて対策を図っても、どうして間に合うでしょう。積貯(貯蓄。蓄積)は天下の大命です。粟(食糧)が多くて財に余りがあれば、できないことがあるでしょうか。攻めれば取り、守れば固め、戦えば勝ち、敵を懐柔して遠方を帰順させれば、どうして招きに応じない者がいるでしょうか。
今、急いで民を農業に帰らせ、全て本(農業)に附かせ、天下の者に自分の力で自分を養わせ、末技(重要ではない技術。工商業)や游食(無職)の民を南(田地)に向かわせれば、畜積が充実して人々が本業を楽しみ、天下を富ませて安定させることができます。それなのに逆に廩廩(危険な事)を為しているので、臣は陛下に替わって惜しいことだと思っています。」
 
文帝は賈誼の進言に心を動かされました。
春正月丁亥(十五日)、「藉田」の儀式を行う詔を発し、天下の民に農耕を奨励するため、文帝自ら田を耕して見本になりました。
藉田というのは宗廟に供える穀物を作る農地で、古代では毎年春に帝王が自ら田を耕す儀式を行いました。「籍田」「耤田」とも書きます。
 
籍田の詔を『史記孝文本紀』からです。
「農とは天下の本である。よって籍田を開き、朕自ら率先して耕すことで、宗廟の粢盛(食器に盛られた食糧)を供給しよう。」
漢書帝紀』はこの後に「民の中で県官に対して罪がある者(恐らく年貢を規定通りに納めていない者という意味です。原文「民讁作県官」。誤訳かもしれません)および種食(五穀の種と食糧)を借りて返せない者、納めた数量が足りていない者は、皆赦すことにする(原文「民讁作県官及貸種食未入、入未備者,皆赦之」)」と続けています。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
三月、有司(官員)が皇子を諸侯王に立てるように請いました。
文帝が詔を発しました「かつて趙幽王は幽死したので、朕はこれを甚だ憐れみ、既にその長子遂を趙王に立てた。今、弟の辟彊と斉悼恵王の子にあたる朱虚侯章、東牟侯興居に功があるので、王に立てるべきである。」
 
こうして趙幽王劉友の少子劉辟彊が河間王に封じられました。
資治通鑑』胡三省注によると、河間は趙国に属します。昨年、劉友の子劉遂を趙王に封じ、今回、趙国から河間を分けて劉遂の弟劉辟彊を王にしました。
 
斉の劇郡(大郡)を割いて朱虚侯劉章を城陽王に封じ、東牟侯劉興居を済北王に封じました(翌年再述します)
二人とも斉悼恵王劉肥の子で、斉哀王劉襄の弟に当たります。
 
その後、皇子(文帝の子)劉武を代王に、劉参を太原王に、劉揖を梁王に封じました。
 
[] 『史記孝文本紀』『漢書帝紀資治通鑑』からです。
五月、文帝が詔を発しました「古(帝堯の時代)に天下を治めた時は、朝に進善の旌(諫言を勧める旗)や誹謗の木(民が失政を指摘する文を書く木の柱)があったから、治道が通じて諫者が来た。しかし今の法には誹謗訞言の罪があるため、衆臣は存分に発言できず、上(天子)も過失を聞く術がない。これでどうして遠方から賢良の士が来れるだろう。よってこれらを全て排除する。
民の中には上(皇帝)を祝詛(呪詛)し、始めは互いに約束して結託しながら、後になって互いに欺く者がいる(始めは一緒に皇帝を呪詛しながら、後には騙して告発する者がいる)。吏(官吏)はこれを大逆とみなし、他にも言があったら、吏は更に誹謗とみなしている。しかしこれは細民(小民)の愚によって死に値することを知らないために招いたことである。朕はこのような法に賛成しないので、今後、この過ちを犯した者の罪を裁く必要はない。」
 
漢書帝紀』顔師古注は、「高后元年(前187年)に訞言令を廃止したのにまた訞言罪について語っているのは、途中で再びこの法が設けられたためだ」としています。
 
[] 『史記孝文本紀』と『漢書帝紀』からです。
九月、始めて郡守に銅虎符、竹使符を与えました。
 
銅虎符というのは兵を動員する時に使う割符です。『史記索隠』によると、割符の右は京師にあり、左が郡守に与えられました。
竹使符は出兵以外の徴発に使う符です。
 
[] 『漢書帝紀』と資治通鑑』からです。
文帝が詔を発しました「農(農業)とは天下の大本であり、民はそれに頼って生きている。しかし民の一部は本(農業)に務めず末(商工業)に従事しているため(不務本而事末)、生活が困難になっている。朕はこのような状況を憂いる。よって、今より自ら群臣を率いて農耕し、これを奨励する。また、天下の民に今年の田租の半分を下賜する(今年は田租の半分を免除する)。」
 
[十一] 『資治通鑑』からです。
燕王劉澤(敬王)が死にました。
史記燕荊世家(巻五十一)』によると、敬王の子劉嘉が継ぎました。康王といいます。
 
 
 
次回に続きます。