西漢時代47 文帝(十) 張釋之 前177年(2)

今回は西漢文帝前三年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
以前、南陽の張釋之が騎郎になりました。
資治通鑑』胡三省注によると、郎は郎中令に属して門戸を管理し、皇帝が外出する時は車騎を担当しました。郎には車戸の三将がおり、車を主管する者は車郎、騎を主管する者は騎郎、戸衛を主管する者は戸郎といいました。全て中郎将の指示を受けます。
 
張釋之は十年経っても能力を認められなかったため、職を辞して帰ろうとしました。
しかし袁盎がその賢才を知って推薦したため、謁者僕射になりました。
謁者は皇帝の近侍で秩は比六百石です。僕射は長官の意味で秩は比千石です。
 
ある日、張釋之が文帝に従って上林苑の虎圈(虎を養う場所)に行きました。
文帝が記録されている禽獣の数について上林尉に問いましたが、十余の質問をしても、上林尉は左右を見まわすだけで答えられません。
資治通鑑』胡三省注によると、左右を見まわした(左右視)理由は慌てて視線が定まらなかったから、もしくは属官に助けを求めたからです。
 
上林尉が答えられないため、傍にいた虎圈の嗇夫(属官)が代わって文帝に答えました。文帝は嗇夫の能力を測るため、更に詳しく質問しましたが、嗇夫は言いよどむことなく回答し、窮することがありません。
文帝は「吏(官吏)とはこうあるべきではないか。尉は頼りにならない」と言い、張釋之に命じて嗇夫を上林令に任命させました。令は尉の上になります。
張釋之は久しく文帝の前に立ち止まってから、こう問いました「陛下は絳侯周勃をどのような人物だと思いますか?」
文帝が答えました「長者だ。」
張釋之がまた問いました「東陽侯張相如西漢初期の功臣)はどのような人物だと思いますか?」
文帝がまた言いました「長者だ。」
張釋之が言いました「(陛下は)絳侯や東陽侯を長者と称していますが、この両人は事を語っても口から出ませんでした(弁論が得意ではありませんでした)。どうしてこの嗇夫の多言善辯(原文「喋喋利口捷給」。言が多くて巧みなこと)に倣うことができるでしょう。そもそも秦は刀筆の吏(文書を得意とする官。「刀筆」の刀は書き間違えた木簡や竹簡を削るために使いました)を信任し、亟疾苛察(煩瑣苛酷)を基準に高低を争いました。その弊害は、いたずらに文だけが具わり、実際は中身がなく、過失を聞くこともできず、最後は陵遅(徐々に衰退すること。「陵遅」の元の意味は丘が徐々に平らになる様子を表します)して土崩(崩壊)しました。今、陛下は嗇夫を口辯によって超遷(抜擢)しようとしていますが、臣は天下が風に従ってなびき、争って口辯を鍛えて中身がなくなることを恐れます。下の者は上に感化され、それは景響(影や音響)よりも速いものです。挙錯(挙動。行動)は慎重にしなければなりません。」
文帝は「善し」と言って嗇夫の抜擢を取りやめました。
 
文帝が車に乗って還る時、張釋之を召して参乗にしました。
文帝はゆっくり車を走らせて張釋之に秦の弊害について問います。張釋之は全て誠実に答えました。
皇宮についてから、文帝は張釋之を公車令に任命しました。
 
暫くして、太子劉啓と梁王劉揖(文帝の子)が共に車に乗って入朝しました。二人とも車に乗ったまま司馬門を通ります。
張釋之は太子と梁王を追って車を止めさせ、殿門に入れさせず弾劾して「公門で車から下りないのは不敬です」と上奏しました。
資治通鑑』胡三省注によると、公車令は衛尉に属します。正式名称は「公車司馬令」というようです。公車司馬令は司馬門を管理していました。殿門や司馬門を通る時は必ず車から下りることになっており、違反したら罰として金四両が科されました。
 
太后がこの出来事を聞きました。
文帝は冠を脱いで自分の子の教育が行き届いていなかったことを謝罪します。
太后は使者を送って太子と梁王を赦す詔を伝えさせました。二人はやっと殿門を通ることが許可されます。
文帝は張釋之を尋常な人物ではないと認めて中大夫に任命しました。
資治通鑑』胡三省注によると、中大夫は論議を管理します。郎中令に属し、太中大夫の下、諫大夫の上に位置しました。
西漢武帝が中大夫を光禄大夫に改名し、秩を比二千石にしました。太中大夫の秩は比千石のままです。
東漢光武帝の時代、諫大夫を諫議大夫にしました。光禄大夫、太中大夫はそのままで、この他に中散大夫もいます。この四官(光禄大夫、太中大夫、中散大夫、諫議大夫)の地位は周代の天子の下大夫、列国(諸侯)の上卿に当たりました。
 
やがて張釋之は中郎将になりました。
 
張釋之が文帝に従って霸陵(文帝陵)に行った時、文帝が群臣に言いました「ああ(嗟乎)、北山(美石の産地)の石を椁(外棺。椁の中に死体が入った棺を入れます)とし、紵(麻)や絮(綿)を切り刻んで隙間を埋め、漆を塗って密封すれば、誰も動かせないだろう(誰も盗掘できない)。」
左右の者がそろって「その通りです(善)」と言いましたが、張釋之だけはこう言いました「中に人が欲しがるような物があれば、たとえ金属を溶かして南山全てを固めたとしても(錮南山)まだ隙があります。人が欲しがるような物がなければ、たとえ石椁がなくても戚(憂慮)はありません。」
文帝は張釋之を称賛しました。
 
この年西漢文帝前三年・前177年)、張釋之が廷尉になりました。
文帝が外出して中渭橋(渭橋には西渭橋中渭橋東渭橋の三橋がありました)を通った時、ある者が橋の下から走って来て、文帝の乗輿(車)を牽く馬を驚かせました。
文帝は騎士に命じて逮捕させ、廷尉に引き渡します。
張釋之が罪を裁いて上奏しました「この者は蹕(通行止め)を犯したので罰金に値します。」
資治通鑑』胡三省注によると、蹕を犯した者は罰金四両と定められていました。
 
刑が軽いため、文帝が怒って言いました「この者は自ら我が馬を驚かせた。馬が和柔だったからよかったが、もし他の馬だったらわしは怪我をしていただろう。廷尉の裁きでは罰金の刑にしか当たらないというのか!」
張釋之が言いました「法とは天下公共のものであり、今の法ではそのように決められています。これ以上重くしたら法が民に信用されなくなります。そもそも事件が起きた時に上(陛下)が人を送って誅殺していればそれまででしたが、今は既に廷尉に下されました。廷尉は天下の平(公平の基準。見本)です。それが傾いたら天下で法を用いる時、いつでも軽重を勝手にできるようになってしまいます。そのような状態で民はどこに手足を置けるのでしょうか(民は安心して生活できません)。陛下の明察を請います。」
文帝は久しく考えてから「廷尉の判決が相応しい」と言いました。
 
後にある者が高廟の坐前(神座の前)から玉環を盗んで捕まりました。
文帝は怒って廷尉に裁かせます。
張釋之は「宗廟の服飾器物を盗んだ者(盗宗廟服御物者)」として判決を下し、棄市(死刑)に相当すると上奏しました。
文帝が激怒して言いました「この者は無道であり、先帝の器物を盗んだ。わしが廷尉に下したのは、刑を一族に及ぼしたかったからだ。しかし君は法に則って上奏した。これはわしが恭しく宗廟を奉じている本意に背くことだ。」
張釋之は冠を脱いで頓首し、謝ってこう言いました「法ではこのように決められているので充分です。それに、罪名が等しくても逆順(罪の程度)によって差があるべきです。今、宗廟の器物を盗んだ罪で族誅したとして、今後万一愚かな民が長陵(高帝陵)から一抔(ひとすくい)の土を取ることがあったら(盗掘する者がいたら)、陛下はどうやってその罪に法(刑)を加えるのですか。」
宗廟の玉を盗むよりも長陵の盗掘の方が罪が重いはずです。玉を盗んだだけで族誅したら、長陵の盗掘に対して科せる刑がなくなってしまいます。
文帝は薄太后に報告して張釋之の判決に同意しました。
 
 
 
次回に続きます。