西漢時代48 文帝(十一) 周勃逮捕 前176年

今回は西漢文帝前四年です。
 
西漢文帝前四年
乙丑 前176
 
[] 『漢書帝紀資治通鑑』からです。
冬十二月、潁陰懿侯(潁陰侯。懿侯は諡号丞相の灌嬰が死にました。
春正月甲午(初四日)御史大夫で陽武の人張蒼を丞相に任命しました。
張蒼は読書を愛して博聞で、特に律暦に精通していました。
 
[] 『資治通鑑』からです(下部コメント欄を参照ください)
文帝が河東守(郡守)季布を招いて御史大夫に任命しようとしました。
しかしある人が「季布は勇猛なうえ酒癖が悪いので天子の近くに置くべきではない」と進言しました。
季布は京師に入ってから邸宅に一カ月も留められ、やっと文帝に謁見しましたが、河東に帰るように命じられました。
季布が文帝に言いました「臣は功もないのに(陛下の)寵を受け(原文「無功竊寵」。直訳すると「功もないのに寵を盗み」)、河東で職に就いていましたが(原文「待罪河東」。直訳すると「河東で罪を待っていましたが」。「待罪」は任務に就くという意味です)、陛下は理由もなく臣を招きました。これは臣の名を出して陛下を欺いた者がいるからに違いありません(功績がない季布を賢才として推挙したので、皇帝を欺いたことになります)。今、臣が来たら何も事(任務)を受けずに帰されることになりました。これは臣を誹謗した者がいるからに違いありません。陛下は一人の譽(称賛。賛辞)を聞いて臣を招き、一人の毀(誹謗)を聞いて臣を去らせましたが、臣は天下の有識の士がこれを聞いて、陛下の浅深(浅はかさ)を窺い知るのではないかと心配します。」
文帝は黙ってしまいました。顔には慚愧が現れています。
久しくして言いました「河東はわしの股肱の郡なので、特に君を招いたのだ。」
 
[] 『資治通鑑』からです。
文帝が賈誼に公卿の位を任せようとして群臣と議論しました。
しかし大臣の多くが賈誼の短所を挙げてこう言いました「洛陽の人(賈誼)は年少初学(若くて浅学)なのに専権を強く欲しており、諸事を攪乱しています。」
この後、文帝は賈誼を遠ざけるようになり、意見も聞かなくなりました。
やがて中央から出して長沙王の太傅に任命します。
資治通鑑』胡三省注によると、当時の長沙王は呉差といい、『漢書韓彭英盧呉伝(巻三十四)』は諡号を靖王としています。しかし『史記漢興以来諸侯王年表』では「靖王著」、『漢書異姓諸侯王表』では「靖王産」となっています。
 
[] 『漢書帝紀からです。
夏五月、皇族に属す劉氏の家族に対して服役を免除し、諸侯王の子に食邑各二千戸を下賜しました。
 
斉悼恵王(劉肥)の子七人を列侯に封じました。
漢書帝紀』は七人の封侯を「秋九月」としていますが、『史記恵景間侯者年表』『漢書王子侯表』では「五月甲寅」になっています。
また、『史記恵景間侯者年表』によると五月甲寅に斉悼恵王の子として封侯された人物は九人います。
管侯劉罷軍(恭侯)、瓜丘侯劉寧国、営侯劉信都(平侯)、楊虚侯劉将盧(恭侯)、朸侯劉辟光、安都侯劉志、平昌侯劉卬、武城侯劉賢、白石侯劉雄渠です。
しかし『漢書王子侯表』を見ると十人になっています。
管侯劉罷軍(共侯)、氏丘(『史記』では「瓜丘」)劉甯国、営侯劉信都(平侯)、楊丘侯劉安(共侯。『史記』にはいません)、楊虚侯劉将盧(または「劉将閭」。後に斉王になるので『漢書』では諡号がありません)、朸侯劉辟光、安都侯劉志、平昌侯劉卬、武成(『史記』では「武城侯」)劉賢、白石侯劉雄渠です。
恐らく『史記』の年表は楊丘侯劉安と楊虚侯劉将盧を混同して楊虚侯劉将盧(恭侯)の一人にしています。
また、『漢書帝紀は「十」を「七」に書き間違えたようです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
絳侯周勃は自分の封国に入ってから、河東守(郡守)や尉(郡尉。郡内の兵を指揮しています)が県を巡行して絳県に来る度に、誅殺されるのではないかと恐れました。
そこで常に甲冑を身につけ、家人にも武器を持たせて郡守や郡尉に会いました。
やがてある者が「周勃は謀反を欲しているから廷尉に引き渡すべきだ」と上書しました。
文帝は廷尉に周勃の逮捕を命じます。
捕まった周勃は恐慌のため獄吏の尋問に対して弁明できませんでした。獄吏はしだいに周勃を侵辱(凌辱)するようになります。
そこで周勃は千金を獄吏に渡しました。獄吏は牘(官吏が持つ文書を書くための木札)の裏に「公主を証人にしなさい(以公主為証)」と書いて周勃に見せます。
公主は文帝の娘で周勃の太子周勝之に嫁いでいました。周勃は公主に助けを求めます。
 
太后も周勃が謀反するはずはないと思っていたため、文帝が薄太后を朝見した時、冒絮(頭巾)を文帝に投げつけてこう言いました「絳侯が諸呂を誅殺した時、皇帝の璽を掌握し、北軍で兵を指揮していました。あの時に謀反しなかったのに、今、一小県に住むようになってからどうして謀反を欲するのでしょう。」
文帝は既に周勃の獄辞を読んでいたため、謝罪して「先ほど獄吏が無罪を実証したので釈放するところです」と言いました。
文帝は使者に符節を持たせて周勃を釈放に行かせました。絳侯としての爵邑が回復されます。
 
獄を出た周勃はこう言いました「わしはかつて百万の大軍を指揮したが、獄吏の貴(尊さ)は知ることがなかった。」
 
[] 『漢書帝紀と『資治通鑑』からです。
文帝が顧成廟を建てました。
漢書帝紀』の注釈によると、廟は長安城南に建てられました。
皇帝が生きている間に建てられた廟は文帝の顧成廟の他に景帝の徳陽廟、武帝の龍淵廟、昭帝の徘徊廟、宣帝の楽游廟(または「楽遊廟」)元帝の長寿廟、成帝の陽池廟があります。
 
 
 
次回に続きます。