西漢時代51 文帝(十四) 中行説 前174年(2)

今回は西漢文帝前六年の続きです。
 
[] 『資治通鑑』からです。
少し遡ります。
匈奴冒頓単于が漢に書信を送ってこう告げました「以前、皇帝(漢帝)が和親の事を語って書意(国書に書かれた内容)を実現させたので共に喜んだ(合歓)。しかし漢の辺吏が右賢王を侵侮(侵犯侮辱)したため、右賢王は単于に)同意を請うことなく、後義盧侯難支匈奴の将)等の計を聴き、漢吏と対峙した。右賢王は二主(漢と匈奴の主)の盟約を絶って兄弟の親(漢と匈奴の兄弟としての関係)を離間させたので、彼を罰して西の月氏を撃たせたところ、天の福と精良な吏卒、強い馬力によって月氏を夷滅(滅ぼすこと)し、悉く斬殺して降伏させ、平定することができた。楼蘭烏孫、呼揭(三国とも西域の国。『資治通鑑』胡三省注によると、烏孫は青い目と赤い髭の獼猴(猿)のような胡人が住む国とされています。楼蘭国は西域の最も東に位置する国で、呼揭は烏孫の東、匈奴の西北に位置します)及び周辺の二十六国も全て匈奴に帰し、弓を引く民(騎射を得意とする民。遊牧民。原文「諸引弓之民」)が合併して一家となり、北州が安定した。これからは武器をしまって士卒を休ませ(寝兵休士卒)、馬を養い、前事(今までの対立)を除き、故約(古い盟約)を回復させて、辺民を安んじたいと思う。匈奴が塞に近づくことを皇帝(漢帝)が欲しないのなら、詔匈奴単于の詔)を発して匈奴の)吏民を辺境から遠ざけて生活させよう。」
 
文帝が返書を送りました「単于が前事を除いて故約を回復させようとしているので、朕はこれを甚だしく嘉する。これは古の聖王の志である。漢と匈奴は盟約によって兄弟になったので、単于にとても厚い礼物を贈ってきた。盟約に背き、兄弟の親を離れさせたのは常に匈奴である。しかし右賢王の事は赦前大赦前)に起きたので、単于が深く誅する必要はない。単于がもし書意を実現させるのなら、約束を破らず、信を守って単于の書の内容を敬うよう諸吏に明告せよ。」
 
暫くして冒頓が死に、子の稽粥が跡を継ぎました。号を老上単于といいます。
老上単于が即位したばかりの時、文帝は再び宗室の娘にあたる翁主(諸侯王の娘)単于の閼氏(妻)として嫁がせました。
この時、宦者の燕人中行説に翁主を補佐するように命じました。
資治通鑑』胡三省注によると、中行が姓です。中行は荀氏の出身で、春秋時代晋の荀林父が中行の将軍になったことから子孫が中行を氏にしました。
 
中行説は匈奴に行きたくありませんでしたが、漢が無理矢理派遣しました、
中行説は「必ず私に行けと命じるのなら、漢の憂患となってみせよう(または「私は必ず漢の憂患となる」。原文「必我也,為漢患者」)」と言いました。
匈奴に入った中行説は単于に降って寵信を受けるようになります。
 
匈奴は漢の繒絮(絹や綿)、食物を好みました。
中行説が単于に言いました「匈奴の人衆(人口)は漢の一郡にも相当しません。それなのに匈奴が強いのは、衣食が異なり、漢を仰ぐ必要がないからです。今、単于が俗を変えて漢の物を好んだら、漢の物は十分の二に過ぎないのに、匈奴は全て漢に帰してしまうでしょう(漢が十分の二程度の物資を費やすだけで匈奴が漢に呑み込まれてしまうことになります)。」
中行説の言に納得した単于は漢から得た繒絮を身につけて草棘の中を駆けまわりました。服も袴も全て破れてしまいます。こうして旃裘匈奴の皮服)の方が優れていることを示しました。
また、漢から得た食物を全て棄てて遊牧民の乳製品)の方が便利で美味であることを示しました。
 
中行説は単于の左右の者に疏記(記述)を教え、人口や畜牧の数を統計させました。
また、漢に送る書牘(木簡の書)や印封(封をして印が押された書)は全て長大にし、敢えて傲慢な文面にして「天地所生日月所置匈奴単于(天地が生み日月が置いた匈奴単于」と自称しました。

漢の使者が匈奴に来た時、匈奴の風俗には礼義がないと嘲笑する者がいました。
すると中行説はいつも漢の使者に反論してこう言いました「匈奴の約束(規律)は径(直接。明瞭)なので容易に実行できる。君臣の関係は簡(簡単。簡潔)なので久しく保つことができる。一国の政は一体のようである(政治は一つの体のように統一調和している)。だからたとえ匈奴で乱が起きても、必ず宗種(宗族の子孫)が立つのだ。今、中国は確かに礼義を語っているが、親属が日に日に疎遠になって殺し合い、奪い合い、姓を換えることもある。これは全てこの類(中国の礼義)が原因であろう。ああ(嗟)、土室の人(中国の人)よ、多くを語って喋喋佔佔(言葉が多い様子)とする必要はない。漢が匈奴に送る繒絮や米糵(食糧)の量が充分で善美なら(量も質も満足できていれば)それでいい。他に何を言う必要があるのだ。汝等が贈る物が備わっていて良質であればそれまでだが、備わらず(数が不充分で)苦悪だったら(質が悪かったら)、秋熟(秋の豊作の時)を待って騎を駆けさせて汝等の稼穡(農作物)を蹂躙するであろう。」
 
中行説と漢の使者のやり取りは別の場所でも紹介します。

西漢時代 中行説

 
[] 『資治通鑑』はここで賈誼の『治安策』を紹介しています。
『治安策』は、諸侯王が中央の脅威になっていること、匈奴に対して強硬な態度をとるべきであること、尊卑の秩序が乱れていること、刑法よりも礼義を重視すべきであること、太子の教育を重視すべきであること、貴人大臣の節操を大切にさせるべきであること等を述べています。
 
特に幅を割いて書かれているのが諸侯王の問題です。
当時は済北王劉興居、淮南王劉長の謀反が明るみになったばかりで、呉王劉濞にも不穏な動きがありました。そこで賈誼は諸侯王の領地を分割して諸侯王の子孫を分封することで、その勢力を弱小化するように進言しました。
この主張は文帝の子景帝とその子武帝の時代に受け継がれていきます。
 
匈奴に対しては、天下の主である漢帝が匈奴単于に屈している現状を嘆き、積極的な戦略を採るべきだと主張しました。
文帝と景帝の時代は匈奴に対して消極的な政策が続きますが、武帝の時代になって大攻勢に転じます。
 
国内においては、庶民の服装が皇帝皇后と変わらず、尊卑の秩序が乱れていることに嘆息しています。また、一部の富民(商人)の生活が過度に贅沢になっているため、「百人が衣服を作っているのに一人の衣服を満足させることもできなかったら、天下が寒さに苦しんでしまう。一人が耕しているのに十人が集まって食べてしまったら、天下が飢えてしまう。飢寒は民と密接に関係しているので、国の財力が尽きたら盗賊が起きることになる」と警告しています。
 
賈誼は『過秦論』でも名が知られています。秦の滅亡の原因を総括し、刑法に偏重した秦の政治を批判しました。『治安策』の中でも、「秦は刑法を重視して礼義を棄てたために十数年で滅亡し、逆に殷(商)周は徳行を重視して長久な治世を築いた」と書いて、礼儀教化の重要さを説いています。
また秦は太子(胡亥。二世皇帝)の教育を誤ったために短命だったともいっており、太子の幼少期からの教育に力を入れるように主張しています。
 
最後は貴臣大臣に対して庶民と同じ刑罰を用いるべきではないと言っています。貴臣大臣を特別視することで尊卑の秩序が明らかになり、その結果、皇帝の地位が高まり、貴臣大臣も忠誠を尽くすようになるからです。
西漢文帝前四年(前176年)、絳侯周勃が逮捕されて獄に繋がれ、結局、無罪とされました。賈誼はこの事件を見て、丞相まで務めた人物に対する遇し方ではないと考え、『治安策』の中で暗に文帝を批判しました。
文帝はこの内容を深く受け止めて臣下の節操を重視するようになります。
この後、漢代の多くの大臣は罪を問われると獄に入ることなく自殺しました。大臣が自殺を潔いこととした漢代の気風は『治安策』に一因があるようです。
 
『治安策』は非常に長い文章なので、『漢書賈誼伝(巻四十八)』を元に別の場所で紹介します。

西漢時代 治安策(一)

西漢時代 治安策(二)

西漢時代 治安策(三)

西漢時代 治安策(四)

西漢時代 治安策(五)

西漢時代 治安策(六)

西漢時代 治安策(七)

 
 
 
次回に続きます。