西漢時代 中行説

西漢文帝前六年(前174年)匈奴に派遣された漢の中行説が単于に帰順しました。

西漢時代51 文帝(十四) 中行説 前174年(2)

 
漢書匈奴(巻九十四上)』から中行説と漢の使者のやり取りを紹介します。
 
漢の使者の中には「匈奴の俗は老人を軽視している(賎老)」と言う者がいました。

すると中行説が反論して言いました「汝等漢の俗では、屯戍や従軍のために出発する者がいたら、親が自ら温厚(暖かい衣服)肥美(美食)を犠牲にして、出て行く者に飲食を贈るのではないか?」

漢の使者は「その通りだ(然)」と答えました。
中行説が言いました「匈奴は攻戦が大事であるということを明らかにしている。老弱の者は戦えないから、肥美(美食)を壮健の者に飲食させて自分を守るのだ。このようにして父子が互いに安全を保っているのに、何をもって匈奴が老人を軽視しているというのだ。」
漢の使者が言いました「匈奴の父子は同じ穹廬遊牧民族の帳)で寝ており、父が死んだら子が後母を妻とし、兄弟が死んだらその妻を自分の妻にしている。また、冠帯の節(冠を被って帯を締める服装の決まり)がなく、朝廷の礼もない。」
中行説が言いました「匈奴の俗では家畜の肉を食べ、その汁(乳)を飲み、その皮を着る。家畜は草を食べて水を飲み、時に従って移動する。よって急(危急)の時は、人々は騎射を習い、寬(平穏)の時は、人々は無事を楽しむ。約束(決まり)は径(直接。明瞭)なので実行しやすく、君臣の関係は簡(簡単。簡潔)なので久しく保つことができ、一国の政は一体のようである(政治は一つの体のように統一調和している)。父兄が死んでからその妻を自分の妻にするのは、種姓(種族)を失うことを嫌うからだ。だからたとえ匈奴で乱が起きても、必ず宗種(宗族の子孫)が立つのである。
今、中国は確かに父兄の妻を娶らないが(礼義を語っているようにみえるが)、親属は日に日に疎遠になって殺し合い、姓を換えることもある。全てこの類(中国の礼義)が原因であろう。
礼義の弊害によって上下が怨みあい、室屋(宮殿建築)を極めることで生力(民力)を損なっている。耕桑に尽力して衣食を求め、城郭を築いて備えとしているため、民は急の時も戦攻を習えず、緩(寛)の時も作業(労働)疲労している。ああ(嗟)、土室の人(中国の人)よ、これ以上うるさく喋るな(顧無喋喋佔佔)。冠があったところで何の役に立つというのだ。」
 
この後、漢の使者が弁論しようとすると、中行説はいつもこう言うようになりました「漢の使者は多くを語るな。漢が匈奴に送る繒絮や米糵(食糧)の量が充分で善美なら(量も質も満足できるようなら)それでいい。他に何を言う必要があるのだ。汝等が贈る物が備わっていて良質であればそれまでだが、備わらず(数が不充分で)苦悪だったら(質が悪かったら)、秋熟(秋の豊作の時)を待って騎を駆けさせて汝等の稼穡(農作物)を蹂躙するであろう。」