西漢時代 治安策(一)

西漢文帝前六年(前174年)に賈誼の『治安策』に触れました。

西漢時代51 文帝(十四) 中行説 前174年(2)

 
ここでは『漢書賈誼伝(巻四十八)』の本文および注釈を元に簡訳します。字数の関係で七回に分けます。
 
当時は匈奴が強大になってしばしば辺境を侵していました。
天下が治まったばかりだったため制度も粗略です。諸侯王で天子に匹敵する勢力を持つ者もおり、それらの王国の地は古に定められた制度を越えていました。淮南王や済北王は謀反の罪で誅されています。
このような状況にあったため、賈誼はしばしば上疏して政事について述べました。賈誼の意見の多くは過ちを正して制度を確立することを欲しています。
その大略はこうです。
 
「臣が事勢(時勢。情勢)を竊惟(個人的に考えること)するに、痛哭すべきことは一つあり、流涕(涙を流す)べきことは二つあり、長く大息(太息。嘆息)すべきことは六つあります。それ以外の理に反して道を損なっていることは、全てを列挙するのは困難です。
(陛下に)進言する者は皆、『天下は既に安定し、既に治まっている』と言いますが、臣だけはまだだと思っています。安定して治まっていると言う者は、愚でないとしたら諛です(愚者でないとしたら阿諛しているのです)。皆、事実に基づいて治乱の体(根本)を理解した意見ではありません。火を山積みにした薪の下においてその上に寝て、火がまだ燃えていないから安全だと言うのと今の情勢は全く同じです。本末が転倒し(本末舛逆)、首尾が分断され(首尾衡決)、国の制度が混乱しているのに(国制搶攘)、しっかりした紀(規則。道理)がなくてどうして治められるでしょう。陛下はなぜ臣に命じて陛下の前でこれらの事を全て説明させ、臣が述べる治安の策を詳しく検討して用いないのでしょうか。
射猟の娯(楽しみ)と安危の機(中枢。中心。物事の最も大切な部分)はどちらが急(重要)ですか?世を治める時、智慮を労して身体を苦しめ、鍾鼓の楽(楽しみ)を乏しくさせることになるのなら、そのような方法を採用する必要はありません。(臣の方法を用いれば)(楽しみ)は今と同じままで、そのうえ諸侯が軌道(規則法制)を守り、兵革(武器甲冑)を動かす必要はなく、民は首領を保ち(首領は「首・命」、または「国主」の意味。原文「民保首領」)匈奴が賓服服従し、四荒が郷風(徳を慕って帰順すること)し、百姓が素朴になり、獄訟が徐々になくなります(衰息)。大数(大勢)が定まったら、天下が順治(秩序があって安定して治まること)し、海内の気が清和して全て理(道理)にかない、(陛下が)生きている間は明帝となり、没したら明神となり、名誉の美は無窮に語り継がれるでしょう。礼によれば、祖とは功がある者を指し、宗とは徳がある者を指すので、顧成の廟(文帝が立てた廟)は太宗と称され、上は太祖(高祖)に配され、漢と亡極(存亡)を共にすることになります。久安の形勢を築き、長治の業を為し、これによって祖廟を受け継ぎ、六親(父母兄弟妻子)を奉じるのは至孝というものです。こうして天下に幸を与え、群生(全ての生き物)を育てるのは至仁というものです。経を立てて紀を述べ(準則綱紀を定め)、軽重を共に得て(「事の大小に関わらず正しく処理し」、または「事の大小に基いて正しい対処方法を定め」。原文「軽重同得」)、その後に万世の法程を定めれば、たとえ愚幼不肖の者が後継者になったとしても、(陛下が定めた)業を受け継いで安定させることができます。これは至明というものです。陛下の明達があり、治世の根本を少しでも知った者に下風(下)で補佐させれば、これらの境地に至るのは難しいことではありません。全て(陛下の)前で述べるので、疎かにされなければ幸いです。臣は謹んで天地を考察し、往古(歴史)を検証し、当今の急務を研究し、日夜これを念じて考えを熟させました。禹や舜を再生させたとしても、陛下の計はこの方法から変えることができません。」
 
 
以上は前置きです。次回から具体的な治世の策に入ります。

西漢時代 治安策(二)