西漢時代 治安策(四)

賈誼による『治安策』の続きです。
 
「天下の形勢は倒縣(倒懸。逆さに吊ること)しています。天子とは天下の首です。なぜなら上にいるからです。蛮夷とは天下の足です。なぜなら下にいるからです。ところが今は匈奴が嫚娒(驕慢侮蔑)な態度で侵掠し、不敬が極みに達しており、天下の患となること言い尽くせないほどです。しかし漢は毎年金絮采繒(黄金、綿、絹織物)を奉じています。夷狄匈奴が発している徵令(「徴」は徴収。「令」は号令)は本来、主上(天子)が操るべきものです。天子が行っている共貢(供貢。貢納)は本来、臣下の礼です。足が逆に上にあり、首が逆に下にあり、このように倒縣しているのに誰も解決できないのですから、国に人(人材)がいるとはいえません。
倒縣しているだけではありません。辟(足の病)を患い、しかも痱(中風。体が自由に動かなくなる病)を得ているのと同じ状態です。辟は一面(一部)の病で、痱は一方(広範囲)の痛みです。今、西辺と北辺の郡は、長爵(高い爵位があっても容易に徭役を免じられず、五尺以上の者(五尺はまだ子供なので、老若問わずという意味になります)は休息を得るのも困難で、斥候は烽燧を望んで横になることもできず、将吏は介冑(甲冑)を着たまま眠りについています。だから臣は一方の病というのです。医者ならこれを治せるのに、上(陛下)は治させようとしません。これが流涕すべきことです。」
 
「陛下はなぜ帝皇の号をもって戎人の諸侯となることが我慢できるのですか。形勢は卑辱で禍も止むことなく、長くこの状況を続けていつ尽きるのでしょう。謀を進める者はそろってこのようにしているのが正しいと言いますが、全く理解できません。具(才能)がないこと甚だしいものです。臣が匈奴の衆(人口)を窺い量るに、漢の一大県に過ぎません。大きな天下が一県の衆によって困窮させられるとは、執事者(政治を行う者)に代わって羞恥を覚えます。陛下はなぜ試しに臣を属国の官(典属国。異民族を管理する官)にして匈奴を主管させないのですか。臣の計を行えば、必ず単于の頸を繋いでその命を制し、中行説を伏させてその背を笞打ち、匈奴の衆を挙げて上(陛下)の令を聞かせるようにできます。今、猛敵を狩らずに田彘(野豚)を狩り、反寇を捕まえずに畜菟(兔)を捕まえ、細娯(小さな遊楽)を楽しんで大患を図らずにいますが、これは天下を安定させる方法ではありません。徳を遠くに施し、威を遠くに加えることができるのに、たった数百里の外にも威令が通じません。これが流涕すべきことです。」
 
「今、民で僮者(未成年の奴婢。隷妾)を売る者は、縁に飾りをつけた繍衣(刺繍がされた服)や絲履(絹糸の靴)を与えて閑(奴婢闌。奴婢が住む檻や囲い)の中に置いていますが、これ(奴婢の服装)は古の天子の后(正妻)と同じ服飾であり、しかも廟に入る時だけ着て、宴の時には着なかったものです。しかし今は庶人がそれを得て婢妾に着せています。表は白縠(白いちりめん)、裏は薄紈(薄いしろぎぬ)を使い、縁には偏諸(織物)で飾りをつけ、更に美しい物は黼繍(斧の形をした模様の刺繍)が施されていることもありますが、これは古の天子の服です。しかし今は富人大賈(大商人)が嘉会(宴会)で客を招いた時、これらの服が壁を覆っています。古ではこれらの衣服を一帝一后に奉じるのが節適(節があって適切なこと)とされました。しかし今は庶人の家の壁に帝の服が掛けられており、倡優のような下賎の者も后(皇后)の服飾を得ています。このようであるのに(庶民がぜいたくな暮らしをしているのに)天下が屈しなかったことは(財力が尽きなかったことは)今までにありません。しかも帝の身は皁綈(黒くて厚地の絹の服)を着ているのに、富民は部屋の壁が文繍で覆われています。天子の后(皇后)が襟の縁を飾っている物で、庶人の(賎妾)が履(靴)を装飾しています。これが臣がいう舛(錯乱。錯誤。本末転倒)というものです。
百人が(衣服を)作っているのに一人の衣服を満足させることもできなかったら、天下が寒さに苦しまないようにしようと思ってもできるはずがありません。一人が耕しているのに十人が集まって食べてしまったら、天下から飢をなくそうとしても無理なことです。飢寒は民の肌膚と密接に関係しているので、(民が飢えと寒さに苦しんでいる時)姦邪なことをさせないようにしたいと思っても、実現できません。国が既に屈したら(財力が尽きたら)盗賊が起きるのは時間の問題です。ところが計を献じる者は『動く必要はない(天下は平安なので何もしなくていい。原文「毋動」)』と大言を為しています。俗(風俗。気風)は既に大不敬となっており、尊卑の差がないのと同じ状態で、上(陛下)を犯しています。それでも計を進める者はまだ『何も為さなくていい(毋為)』と言っています。これが長く太息(嘆息)すべきことです。」
 
「商君(秦の商鞅は礼義を失って仁恩を棄て、進取(進攻。富国)のために心を一つにし、これを二年実行して秦の俗を日々衰敗させました。そのため秦人は、家が富んでいたら成長した子はすぐに分家し、家が貧しかったら成長した子は贅(壻)に出ました。父に耰鉏(農具)を貸す時にも心の中に徳色(恩を施した時の優越感)を抱き、母が箕箒(塵取りと箒)を取ったら(使ったら)すぐに誶語(罵倒)します。(妻は)子を抱えて哺乳し、公(夫の父)と並んで足を伸ばして座り、婦姑(妻と夫の母)は互いに楽しまず、口答えして言い争っています。ただ子を慈しんで利を欲する(慈子耆利)だけで、禽獣とほとんど変わりがありません。(商君は)一心になって時に順じたため、六国を破って天下を兼併できました。功績が成就し、求めてきたものを得たのです。但し、最後まで廉愧(廉恥)の節や仁義の厚(厚徳)に反したことを知らず、并兼(兼併)の法を推し進め、進取の業を遂行したため、天下が大敗しました(天下が荒廃しました。徳が失われました)。衆(多数)が寡(少数)を覆い、智が愚を欺き、勇(勇敢な者)が怯(臆病者)を威圧し、壮(強者)が衰(弱者)を虐げ、乱は頂点に達しました。そこで大賢(高帝劉邦が立って海内を威震させ、徳によって天下を従わせたのです。
かつては秦の天下でしたが、今は転じて漢の天下になりました。ところが秦の遺風余俗(残した風俗)はいまだに改められていません。今の世は侈靡(奢侈)を互いに競い、上には制度がなく、礼誼(礼義)を棄て、廉恥を放棄し、このような状況は日々ひどくなっており、月ごとに異なり、年ごとに変わっているといえます。追及するのは利があるかどうかだけで、顧行(振り返って行動を正しくすること)を考えることはありません。更に甚だしい場合は父兄を殺す者もいます。盗者が寝戸(宗廟や陵墓の部屋の戸)の簾を割いて奪い、両廟(高祖と恵帝の廟)の器を盗み、白昼の大都の中でも吏(官吏)を襲って金を奪っています。矯偽の者(虚偽の者。詔書を偽った者)が十万石に近い粟(食糧)(国庫から)出し、六百余万銭を徴収し、伝(伝車。官の車)に乗って郡国を巡行しています。これらは極めて行義(道義)を失ったことです。ところが大臣は簿書(官署の財物を管理する帳簿)が報告されないことや期会(政策、政令の期限)の間のことだけを大故(大問題)としており、俗流(習俗)を失って世が壊敗することに対しては、平然として怪しむことを知りません。耳目がそれらに触れても心を動かすことなく、適然(当然のこと)だと思っています。風俗を変えて(移風易俗)天下の心を道に還らせるのは、俗吏(凡庸な官吏)ができることではありません。俗吏が任務とするのは、刀筆筐篋(刀筆は筆記の道具で、刀は書き違えた字を削る時に使います。筐篋は文書を入れる箱です)にあり、大礼は知りません。陛下もこのような状況を憂いることがないので、臣は秘かに陛下に替わって惜しんでいます。
君臣を立てて上下の等級を定め、父子に礼を持たせ、六親に紀(法度)を持たせるのは、天が為すことではなく、人が設けることです。為さなければ立たず、植えなければ倒れ、修めなければ壊れます。筦子(管子)はこう言いました『礼義廉恥、これを四維(四本の綱)という。四維が張らなければ国は滅亡する(礼義廉恥,是謂四維。四維不張,国乃滅亡)。』もし筦子を愚人とするのならかまいません(管子が愚人ならその発言を聞く必要はありません)。しかし筦子が少しでも治体(政治の根本)を知っていたとするのなら、どうして心が寒くならないのでしょう。秦は四維を滅ぼして張らなかったため、君臣が乖乱(錯乱)し、六親が殃戮に遭い、姦人が並起し、万民が離叛し、十三歳(年)社稷が廃墟と化しました。今は四維がまだ備わっていないため、姦人が幸(幸運)を望み、衆心(人心)が疑惑しています。今、経制(常制。等級の制度)を定め、国君を国君らしく、臣下を臣下らしくさせ(君君臣臣)、上下に差(等級)ができ、父子六親が適切な居場所を得れば(各得其宜)、姦人は幸を望めなくなり、群臣は共に信を守り、上も疑惑しなくなります。この業が一度定まれば、世世(代々)常に平安になり、後代が守るべき法が成立します。逆にもし経制を定めなかったら、江河を渡るのに維楫(船を繋ぐ縄と櫨)がないのと同じです。中流に至って風波に遭ったら舩(船)は必ず転覆します。これが長く太息(嘆息)すべきことです。」
 
 
次回に続きます。

西漢時代 治安策(五)