西漢時代 治安策(五)

賈誼による『治安策』の続きです。
 
「夏(王朝)は天子になって十余世経ってから殷商王朝に継がれました。殷は天子になって二十余世経ってから周に継がれました。周は天子になって三十余世経ってから秦に継がれました。しかし秦は天子になってから二世で亡びました。人の性はそれほど遠くないのに(違わないのに)、なぜ三代の君は道があって長く続き、秦は無道で暴虐だったのでしょうか。その原因を知ることができます。
古の王者は太子が生まれると必ず礼によって挙げ、士に背負わせ、有司(官吏)が端冕(礼服と冠)を斎粛(整然厳粛)にし、南郊に至って天に見せました(南郊で天を祭りました)。宮闕を通る時は車から下り、廟の前を通る時は趨(小走り)になるのが孝子の道です。よって(孝子の道を教えるには)赤子の時から教育を始める必要があるのです。
昔、成王が幼くて抱の中にいた時、召公が太保に、周公が太傅に、太公が太師になりました。保はその身体を保ち、傅は悳義(徳義)を傅し(補佐して伝授し)、師は教訓を教え導きます。これが三公の職です。更に三少を置きました。全て上大夫で、少保、少傅、少師といい、太子と安居(一緒に生活すること)する者です。このようであるので、孩(子供)の頃から知識を向上できました。
三公、三少は孝仁礼義を明らかにすることで(太子を)道習(導習。指導教育)し、邪人を遠ざけて太子に悪行を見せないようにします。そのために、天下の端士(実直な士)を選び、孝悌博聞で道術(道徳学術。または治国の道に関する知識)をもつ者を衛翼(補佐)とし、太子と一緒に住んで出入も共にさせます。よって、太子が生まれてから見るものは全て正事であり、聞くことは全て正言であり、行うのことは全て正道であり、左右前後にいるのは全て正人になります。正人と共にいることが習慣になれば、毋正(正しくないこと)にはなれません。斉で生まれ育ったら斉の言葉を話せないはずがないのと同じです。逆に不正の人と一緒にいることが習慣になったら、毋不正(正しいこと)にはなれません。楚の地で生まれ育ったのに楚の言葉が話せないはずがないのと同じです。よって耆(愛好。ここでは好きな食べ物)を選ぶ時は、まず必ず学業を授けてから食べさせます。楽(楽しみ)を選ぶ時は、まず必ず復習してからそれを為させます(遊ばせます)孔子はこう言いました『幼い時に養ったものは天性と同じである。習慣となったことは自然と同じである(少成若天性,習貫如自然)。』
太子が少し成長して妃色(女色)を知る頃になったら、学(学校。学館)に入れます。学とは学ぶ官舎です。学礼にはこうあります『帝が東学に入ったら、親を重んじて仁を貴ぶこと(上親而貴仁)を身につけるので、親疎に序(秩序)ができて恩が互いに及ぶようになる。帝が南学に入ったら、老人を重んじて信を貴ぶこと(上歯而貴信)を身につけるので、長幼に差(等級)ができて民が誣告しなくなる。帝が西学に入ったら、賢人を重んじて悳(徳)を貴ぶこと(上賢而貴悳)を身につけるので、聖智が位に就いて(任用されて)功績が残されなくなる(忘れられないようになる)。帝が北学に入ったら、貴人を重んじて爵を尊ぶこと(上貴而尊爵)を身につけるので、貴賎に等(等級)ができて下の者が身分を越えないようになる。帝が太学に入ったら師に就いて道を問い、退いたら復習して太傅の考(試験)を受け、太傅は不則(道理に則らないこと。誤り)を罰して不及(足りない部分)を正す。こうして悳(徳)智が長じて治道(治国の道理)が得られるのである。上においてこの五学が完成したら、下において百姓黎民が化輯(感化して和睦すること)することになる。』
太子が冠礼して成人になったら、保傅の厳しい管理を免じ、記過の史(過失を記録する史官)、徹膳の宰(食事を運ぶ宰夫。食事の時に過失があったら教育します)、進善の旌(善言を奨励する旗。または諫言する者が旗の下に立って意見を述べました)、誹謗の木(諫言を記す木)、敢諫の鼓(諫言する時に敲く太鼓)が置かれます。瞽史(盲人の史官)が詩を朗読し(「瞽史誦詩」。史官が詩を読んで教訓を教えたり戒めます)、楽人が箴諫(諫言、訓戒の文書)を歌い(工誦箴諫)、大夫が謀を進め、士が民語(民間の言葉)を伝えます。智と共に成長することが習慣になるので、常に切磋して羞恥となることがありません(大きな失敗がありません。原文「切而不媿」)。教化と心が共に形勢されるので、中道(道理に即している状態)が本性のようになります(中道若性)
三代の礼においては、春の朝に朝日を迎え(または「朝日を祭り」。原文「春朝朝日」)、秋の暮れに夕日を迎えました(または「夕日を祭りました」。原文「秋暮夕月」)。こうして敬があることを明らかにするのです(恐らく、「天を敬うことを明らかにする」という意味)。春秋の入学の時は、国老に坐ってもらい、(太子が)自ら醤をもって(国老)に贈ります。こうして孝があることを明らかにするのです。移動する時は鸞(車についた鈴)と和し(車を走らせる時は鈴の音と調和し)、歩の時(ゆっくり移動する時)は『采齊』に符合し、趣の時(速く移動する時)は『肆夏』に符合させます(『采齊』『肆夏』とも詩の名称です。移動する時は車についた鈴の音がこれらの詩(音楽)の律動に符合しなければならないという意味です)。こうして度(規則。規律)があることを明らかにするのです。禽獣に対しては、生きている姿を見たことがあったら、それが死んでも食べず、その声を聞くことがあったら、その肉を食べません。そのため(禽獣の姿を見たり声を聞いたりしないため)庖厨(厨房)から遠く離れます。こうして恩を長く施して、仁があることを明らかにするのです。
三代が長久だった理由は、太子の輔翼がこのように具わっていたからです。秦に至ったらこのようではなくなりました。秦の俗は元々辞譲(謙譲)を貴ばず、告訐(告発)を重視していました。礼義を貴ばず、刑罰を重視していました。趙高を胡亥の傅にして教えたのは獄(訴訟。裁判。刑法)であり、胡亥が習ったのは斬首や劓人(鼻を削ぐ刑)でないとしたら人の三族を滅ぼすことでした。だから胡亥は今日即位して明日には人を射ち、忠諫の者を誹謗とみなし、深い計の者を妖言とみなし、人を殺すことを草菅(草茅)を刈るように軽く見たのです。胡亥の性が悪だったことだけが原因なのでしょうか。(趙高が)導いた内容が理(道理)に符合していなかったことが原因です。
鄙諺(諺)にこうあります『官吏の職務を習熟していなかったら、既に完成した事例を視ればいい(官吏になっても職務の内容が分からなかったら、前人が成した事を参考にすればいい。原文「不習為吏,視已成事」)。』またこうも言います『前の車が転倒したら、後ろの車は戒めとせよ(前車覆,後車誡)。』三代が長久だった理由は、已事(往事。歴史)から知ることができます。それなのに(已事に)従えないのは、聖智に倣わないのと同じです。秦の世が亟絶(急速に滅ぶこと)した理由は、轍跡(車輪の跡)から見てとることができます。それでも(前者の失敗を)避けないようでは、後ろの車もまた転覆してしまいます。存亡の変(変化)も治乱の機(肝要な部分)も、その要はここにあります。天下の命は太子にかかっており、太子の善は早く諭教することと左右の者を選ぶことで決まります。童心を失う前に(原文「夫心未濫」。直訳すると「心があふれる前に」「心が自由になる前に」)諭教を始めれば、教化は容易に成功します。道術(治国の道理)と智(義)の要旨を開くのは、教育の力です。繰り返し習って習慣にさせるのは(服習積貫)、左右の者しかいません(左右の者の任務です)。胡匈奴と粤(越)の人は、生まれた時は同じ声で、耆欲(嗜好)も異なりません。しかし成長して習慣に馴染んだら、複数の通訳を通しても意思を通じることができず、彼等の行動はたとえ死んでも入れ代わることがありません。これは教習(教育と習慣。または教育と学習)がそうさせているのです。だから臣は左右の者を選ぶことと早く諭教することが最も緊迫した任務だと言うのです。教えが適切で左右が正しければ太子も正しくなります。太子が正しければ天下が定まります。『書』にはこうあります『一人に慶があれば、兆民が頼りにする(天子が善なら万民が利を得られる。原文「一人有慶,兆民賴之」)。』よってこれ(太子の教育)は時務(急務)となります。」
 
 
次回に続きます。