西漢時代 治安策(六)

賈誼による『治安策』の続きです。
 
「人の智とは、既に起きた事は見れますが、将来起きる事は見れません。礼とは将来起きる事を禁じるもので、法とは既に起きた事を禁じるものです。だから法の作用は容易に見ることができますが、礼から生まれることを知るのは難しいのです。慶賞(賞賜)によって善を勧め、刑罰によって悪を懲らしめるという方法については、先王がこのような政治を実行しており、それは金石のように堅く(このような政治の方針は固く守られており)、この令を行えば、四時のように信があり(原文「信如四時」。恐らく四季の移り変わりのように規則正しくて誤りがないという意味。または信が長く続くという意味)、この公(公正な賞罰)を根拠にすれば、天地のように無私になります。だからこのような方法(慶賞と刑罰)を使わないはずがないのです。
しかし『礼が言うには…、礼が言うには…(礼云礼云)』と繰り返し礼について語るのは、悪が芽生える前に絶つことを貴ぶからです。礼は、微眇(細小)なことから教えて民を日に日に善に向かわせ、辠(罪)から遠ざけて、しかも民はそれに気づくことがありません。孔子はこう言いました『私に訴訟の判決をさせるのなら、私は他の人と変わりがありません。しかし私は、まず徳義によって人を教化し、訴訟そのものをなくしてみせます(聴訟,吾猶人也,必也使毋訟乎)。』
人主のために計る者は、まず取捨を正しく選ぶべきです。取捨の極(基準)は内にあり、安危の萌応(芽生え)は外にあります。安(安定)とは一日で安となるのではなく、危(危険)とは一日で危になるのではありません。全て徐々に蓄積されて発生するのです。これらのことはよく考察しなければなりません。人主が蓄積するものは、取捨の内容によって決まります。礼義によって治める者は礼義が蓄積され、刑罰によって治める者は刑罰が蓄積されます。刑罰が蓄積されれば民が怨んで背き、礼義が蓄積されれば民が和して親しみます。世主が民の善を欲するのは共通しています。しかし民を善に向かわせる方法は異なります。徳教によって導くこともあれば、法令によって駆けさせる(善に向かわせる)こともあります。徳教によって導けば、徳教が拡がって民気(民の気風)が楽(愉快)となります。法令によって駆けさせたら、法令が極まって民風が哀(哀怨)となります。哀楽の感(感情)とは禍福の応(現れ)です。秦王始皇帝が宗廟を尊んで子孫を安定させたいと願ったのは、湯武(商の成湯と西周武王)と同じです。しかし湯武はその徳行を広大にしたため、六七百歳(年)経っても天下を失いませんでしたが、秦王は天下を治めて十余歳で大敗しました。他に理由があるわけではありません。湯武が取捨を定める時は慎重に選びましたが、秦王が取捨を定める時は慎重ではなかったのです。天下とは大きな器です。人が器を置く時、安全な場所に置けば安全ですが、危険な場所に置けば危険になります。天下の状況と器には違いがありません。天子が(天下を)どこに置くかで決まるのです。湯武は天下を仁義礼楽の上に置いたので、徳沢(恩徳)が天下に拡がり、禽獣草木も広く豊かになり、徳が蛮貊四夷まで覆い、子孫数十世に及びました。これは天下が聞いたことです(知っていることです)。秦王始皇帝は天下を法令刑罰の上に置いたので、徳沢は一切なく、怨毒が世に満たされ、下の者は仇讎に対するように始皇帝を)憎悪し、禍が始皇帝自身の)身に及びそうになり、子孫が誅絶しました。これは天下が共に見てきたことです。
これらの例は大きく異なる二つの結果を明らかにしていないでしょうか(原文「是非其明效大験邪」)。人はこう言っています『人が話す道理を聞く時は、必ず事実を観せること。そうすれば話す人は妄りに発言できなくなる(聴言之道,必以其事観之,則言者莫敢妄言)。』今、ある人は礼誼(礼義)が法令に及ばず、教化が刑罰に及ばないと言っていますが、人主はなぜ殷秦の事実を彼等に見せないのですか。」
 
 
次回に続きます。