西漢時代 治安策(七)

賈誼による『治安策』の続きです。今回で終わります。
 
「人主の尊(高貴)は堂(殿堂)と同じで、群臣は陛(階段)、衆庶(庶民)は地のようなものです。だから陛九級(九等。九段)の上は、廉(堂の縁)が地から遠く離れており、堂が高くなっています。陛に級(段)がなくなったら廉が地に近くなり、堂は低くなります。高い場所は登りにくく、低い場所は踏みやすいのが当然の道理です。よって古の聖王は等列を制定し、内(朝廷)には公大夫士がおり、外には公(五爵)がおり、その後に官師(官長)小吏を置き、更に庶人に至るまで等級を分けて明らかにしました。天子は上に加えられたので、(誰も)その尊貴に及ぶことができないのです。
里諺(諺)にこうあります『鼠に物を投げたいが、器物が壊れることを心配する(欲投鼠而忌器)。』これは善い比喩です。鼠が器物の近くにいたら、器物が壊れることを恐れるので物を投げるのを憚るものです。人主の近くにいる貴臣ならなおさらでしょう(人主が器で貴臣が鼠です。貴臣を傷つけたら人主も傷つける恐れがあるという意味です)(人主とは)廉恥節礼によって君子を治めるものです。だから(君子に)死を賜ることはあっても戮辱することはありません。黥劓の辠(罪。刑)が大夫に及ばないのは、大夫が主上(人主)から遠くに離れていないからです。礼によると、主君の路馬(馬車の馬)の年を調べたり計算してはならず、芻(馬の飼料)を蹴った者は罰することになっています。主君の几杖(肘掛けと杖)を見たらすぐ立ち上がり、主君の乗車に遇ったらすぐ車から下り、正門を入る時は趨(小走り)になり、主君の寵臣に過失があったとしても刑戮の辠(罪。刑)をその身に加えません。これは主君を尊ぶからです。こうすることであらかじめ主上から不敬を遠く離れさせ、また、大臣に礼貌(礼をもって敬うこと)して、その節操を守るように奨励するのです(天子の近くにいる大臣に刑を与えないのは、一つは天子の地位が高いことを示して尊ばせるため、もう一つは大臣を礼遇して謀反から遠ざけさせ、行動を正すように奨励するためです)。今、王侯から三公にいたる貴人は全て天子が改容して(儀容を変えて。姿勢を正して)礼遇するべきであり、古の天子が伯父伯舅(周代の天子は年上の諸侯を呼ぶ時、同姓なら伯父、異姓なら伯舅と言いました)と呼んだのと同じ存在です。それなのに今は衆庶(庶民)と同じように黥(刺青)(鼻を削ぐ刑)(髪を剃る刑)(足を切断する刑)(鞭打ち)(罵倒)棄市(死刑)の法を用いています。これでは堂の陛(階段)がなくなってしまうのではありませんか。戮辱を被った者が(天子に)接近し過ぎていませんか。廉恥が行われなくなったら、重権をもった大臣が大官にいながら徒隷のように無恥の心をもつことになるのではありませんか。望夷宮の事(事件)では二世皇帝(胡亥)が重法の裁きを受けましたが(殺されましたが)、これは鼠に物を投げる時、器物の心配をしないのが習慣になっていたからです(人主の近くにいる貴臣を尊重していなかったからです。原文「投鼠而不忌器之習也」)
臣は『たとえ履(靴)が新しくても枕の傍にはおかず、たとえ冠が古くなっても靴の中敷きにすることはない(履雖鮮不加於枕,冠雖敝不以苴履)』と聞いています。かつて貴寵の位におり、天子が改容礼貌したこともあり、吏民が俯伏して敬畏を表した人物なら、今になって過失を犯したとして、帝は爵位官職を)廃してもかまいません、退けてもかまいません(引退させてもかまいません)死を賜ってもかまいません、(家族を)滅してもかまいません。しかし束縛して係緤(長縄)で繋ぎ、司寇に送り、徒官(官府の刑徒)編入し、司寇の小吏が詈罵して榜笞(笞打ち)するようなことは、恐らく衆庶に見せるべきではありません。卑践の者が尊貴の者でも一旦にして刑を得ると熟知したら、自分も(尊貴の者に刑を)加えるようになります。これは天下に教習することではなく、尊尊貴貴(尊貴な者を尊ぶこと)の教化にもなりません。天子が敬ったことがあり、衆庶が寵(栄光)としたことがあるのなら、死ぬべき時に死ぬべきです(死而死耳)。賎人がどうしてこのように頓辱(侮辱。凌辱)できるのでしょう。
豫讓は中行に仕えて君としましたが、智伯が討伐して中行を滅ぼすと、移って智伯に仕えました。しかし趙が智伯を滅ぼしてからは、豫讓は顔を塗って炭を呑みこみ、必ず襄子(趙無恤)に報復しようとして五回行動し、全て失敗しました。ある人が豫子(豫讓)に問うと、豫子はこう言いました『中行は衆人として私を養ったので、私も衆人として仕えた。智伯は国士として私を遇したので、私も国士として報いるのだ。』このように一人の豫讓が自分の主君に反して讎人に仕え、その行為は狗彘(犬豚)のように卑劣だったのに、後には節操を堅守して忠を尽くし(抗節致忠)、行いが列士のように崇高になりました。これは人主がそうさせたのです。よって、主上が大臣を犬馬のように遇したら、彼も自分を犬馬のようにして仕えます。官徒のように遇したら、彼も自分を官徒のようにして仕えます。
頑固無恥頑頓亡恥)で、志がなく節も失い詬亡節)、廉恥を忘れ(廉恥不立)、自分を愛さず(且不自好)、目先の事だけを考えて善しとするようなら(苟若而可。「苟若」は「とりあえず」の意味)、利を見たらすぐに去り、便を見たらすぐに奪います。主上が衰敗したら機に乗じて簒奪し、主上に患難があったら自分の身だけを案じて傍観し、自分の身に利便があることなら、欺売して(偽って主を売り)自分の利にします。このような者は人主にとって何の便があるでしょう(役に立ちません)。群下(群臣)は数が多いのに、主上は一人です。財器職業を託しているのは全て群下です。(群臣が)共に無恥になり(廉恥を失い)、共に苟妄(目先の事しか考えなくなること)になるのは、主上が最も憂慮するべきことです。よって古の礼は庶人に及ばず、刑は大夫に及ばず、こうすることで寵臣の節を奨励したのです(庶人と貴人に対する待遇を変えることで貴人に節操を守るように奨励したのです)。古の大臣で不廉のために廃された者は、『不廉』とはいわず、『簠簋不飾(食器を飾らなかった。食器が整っていない)』といいました。汙穢淫乱で男女の別がない罪を問われた者も、『汙穢(汚穢)』とはいわず『帷薄不脩(帷薄が整っていない。帷薄は帷幕や簾の意味です)』といいました。罷軟(軟弱無能)で任務を全うできない者も『罷軟』とはいわず『下官不職(下官は職を全うできない)』といいました。貴大臣が確かに辠(罪)を犯したとしても、正面から公然と罪を宣言することはなく、婉曲な表現に換えて彼等のために忌避したのです。だから大譴大何(天子の厳重な譴責審問)の境地にいる者は、譴何(譴責審問)を聞いたらすぐ白冠(喪服時の冠)氂纓(毛の帽子。大臣が罪を犯して謝罪する時に被りました)をかぶり、水を張った盆に剣を置き(原文「盤水加剣」。盆の水は公平を表し、天子の裁きが公平であることを示すといわれています。または首を斬った時の血を洗い流すための水ともいいます)、請室(清室。罪を清める部屋)に行って辠(罪)を請いました。上(天子)が執縛(逮捕)して引き立てる必要はありません。中罪の者(大罪と小罪の間の者)は、命を聞いたら自ら廃したので(官を辞して自殺したので)、上が人を送って首を斬らなくても、刀を加えることができました(原文「上不使人頸而加也」。「」の意味が分からないので『漢書』の注釈を元に意訳しました)。大辠(大罪)の者は、命を聞いたら北面再拝し、跪いて自裁(自殺)したので、上が人を送って髪をつかんで押さえつけなくても刑が行えました。(大臣が罪を犯した時、)(古の帝王)はこう言いました『子(汝)大夫は自ら過ちを犯した。私は礼をもって子を遇する。』
(上の)待遇に礼があれば群臣は自愛し、廉恥を加えれば人は節行を尊びます。上が廉恥礼義を設けてその臣を遇しているのに、臣が節行をもって自分の上(主君)に報いないようなら、それは人の類ではありません。よって、教化が成って風俗が定まったら、人の臣たる者は主のために我が身を忘れ、国のために自分の家を忘れ、公のために私を忘れ、利があっても軽率に取ろうとせず、害があっても容易に去ろうとせず、ただ義だけに則って行動するようになるのです(唯義所在)。上が教化を行うから、父兄(宗族)の臣は宗廟に忠誠を尽くして死に、法度の臣(司法の臣)社稷に忠誠を尽くして死に、輔翼の臣は君上(主君)に忠誠を尽くして死に、守圄(国)扞敵(敵に対抗すること)の臣は城郭封疆のために忠誠を尽くして死ぬようになるのです。『聖人には金城(堅固な城)がある(聖人有金城)』といいますが、これは物(金城)によってこのような志(忠誠を尽くして死ぬという意志)を表現したのです。彼(ある人)が私のために死ぬことも厭わないから、私は彼と共に生きなければならないのです。彼が私のために亡ぶことも厭わないから、私は彼と存亡を共にしなければならないのです。夫(彼)が私のために危険も厭わないから、私は彼と共に平安でいなければならないのです。行いを顧みて利を忘れ、節を守って義を守るから、(大臣に)不御の権(制限のない権利)を託し、六尺の孤(幼い後継者)を任せることができるのです。これが廉恥を奨励して礼誼(礼義)を提唱した成果です。主上が失うものはありません。此(大臣貴人を尊重すること)を行わず、彼(貴人の地位を低くすること)を久しく行っているので、長く大息(嘆息)すべきことがあると言うのです。」
 
顔師古は「賈誼は長太息すべきことが六つあると言っているが、ここまでで三つしかない。史家が要点だけを切り取ったのであろう」と注釈しています。
 

西漢時代 治安策(一)

西漢時代 治安策(二)

西漢時代 治安策(三)

西漢時代 治安策(四)

西漢時代 治安策(五)

西漢時代 治安策(六)

西漢時代 治安策(七)